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2017年03月13日11:55

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人間国宝「桂 米朝 と その時代展」を見て来ました

大衆演芸の一つなのに 「落語」 と云いますと、若い人の多くは“難しい芸”だと誤解し、敬遠する人が多いのには呆れます。 まぁ、特に古典落語に出て来る言葉や単語には、昔の言い回しやもう今は無くなってしまった生活用具の名詞が出て来ますから、その言葉が解らない為、話の理解も難しいのかも知れません。

チョッと例を挙げると、カンテキ=コンロor七輪、へっつい又はおくどさん=かまど、おごろもち=モグラ(畑の土中を荒らす害獣)、けんげしゃ=縁起担ぎ、さいぜん=今しがた、おなごしーお手伝いさん、等々ご存じの方も居るでしょうけどその他に一杯ありますから・・。

私が「落語」に接したのは終戦直後、ラジオから流れてくる「江戸落語」の数々でした。もう殆ど居なくなりましたが、金馬、今輔、圓歌、圓生、痴楽、可笑、正蔵、圓楽、小さん、金語楼、等々これは皆先代の師匠たちで、今の噺家の一時代前の噺家たちです。

その頃ラジオは、“国民型4球ラジオ”から“5級スーパーラジオ”が普及してきた頃で、兵庫県の片田舎に住んで居た自宅でも、大阪のNHKの放送が良く聞こえたものです。
その頃、大阪の「上方落語」は“絶滅危惧種”のような状態で、噺家の数は10人以下と言う人数でした。

そういう時代に在って、彗星のごとく現れたのが 「桂 米朝」と言う落語家で、勿論彼は「落語」と言う話芸に中学生の頃から興味を持ち、その道の人ともかなり濃密な接点を持って居たようですが、色々ないきさつは省略しますが、〜〜〜長じて大阪の噺家「桂 米団治」の許へ弟子入りし、これまたいろいろの経緯の後「桂 米朝」と言う噺家に成ります。

昭和20年代の頃は、先にも書きました様に「上方落語の消滅寸前期」で、放置して置けば関西での落語は消えて終う恐れもあったのです。何とかこれを継承して行かねば ! と決意した米朝は、仲間の 笑福亭 松鶴、 桂 春団治、 桂 小文枝、 に図り、積極的な落語会の開催や、弟子の取り込み、話の掘り起し、ラジオや小屋への売り込み、等あらゆる振興策を講じて行きました。

上記に挙げた4人の噺家が、後の「上方落語四天王」と云われる面々で、絶滅危惧種を復活させた「上方落語中興の祖」と云われる師匠たちです。
そのお蔭で「上方落語」は今に繋がって居るのですが、此の四天王ががんばっている昭和30年代前半に、毎月、高麗橋の三越劇場で開催されていた「上方落語の会」へ度々聞きに行っていました。それ以後私の落語好きは止む事無く今に続いています。

でも、申し訳ありませんが、私は好き嫌いが激しく、お気に入りの上方の噺家は10本の指に足りません。その点は、関西落語協会会長の、文枝師匠に謝らねばなりません。

其れはさて置き、その「桂 米朝とその時代展」が姫路の「兵庫県立歴史博物館」で開催されて居まして、もう程なく閉幕を迎えるようですが、興味のある方は今の内にご一見を!
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