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2017年02月04日22:49

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貿易が儲かるのは当然


 当然だが貿易が儲かる。
 天下統一、とか、何のために?
 と思うのは当たり前だろう。

 聖明王の末裔で、日本に渡ったときは姓が「多々羅」
 かの 「たたら製鉄」 を日本に持ち込み、
 鉄器を使って、大和政権樹立を成し遂げる。

 その後、明治維新までは、ずっと山口なのだが、
 祖父は満州で鉱山開発をやっていた。
 何となく、血筋的なものは感じる職業。
 (ソ連の参戦で、すべてパーだが、、、、)

 いま住んでいる家は、元々日本板硝子の社長宅で、私から見ると大叔父に当たる人の家。
 伊藤博文が朝鮮総督だった時代があり、半島の採掘権をすべて掌握した形でガラス屋で利益を上げたよう。(なお、この大叔父とは血縁関係はない。と思う。)


 私自身は山口へは数えるほどしか行ったことがなく、特に故郷という感じもしない。
 勿論親戚は色々いるのだが、今更地の利がある場所でもない。

 と言っても、江戸幕府がなくなるまでの間、貿易によって得られた潤沢な資金があればこそ、室町幕府の政策に介入できる影響力があったわけで、そこはわざわざ自分が京都で政治をやる必要もない、と感じるところだろう。
 江戸時代に関してだけは、実権を毛利家が持っているので、やや趣は異なるが、倒幕に関して虎視眈々と策略を練っていたのは幕末の様々な事件を見ればわかる。

 曾祖父が、職業的には医者だったので、近い親戚には医者が多く、政治家は遠い親戚ばかりとなってしまっている。
 私自身は、医者というのはとても面倒な職業だと思っているので、はなからそんな進路は選ばなかったが、曾祖父も同じようなことを感じていたのだろうと思う。

 技能的に、「人の命を助ける」 という行為そのものには、割とすぐ限界が見える。
 その限界を超えるような仕事、をするよりも、もっと別のアプローチの方が効果的だと感じたのだろう。

 ある意味、政治家、はそうしたアプローチの職業だと思う。
 貿易で利益を上げていくのも同じような発想。

 母方の祖父が、博多で事業をやっていて、まあ膨大な利益を上げていたわけだが、戦時中食糧難になっても、自社の社員の生活を守っていくために、闇の物でも何でもお金を積んで食料を買い集め食事を提供していたらしい。

 それは、逆の話をするなら、結局お金のない人は飢え死にを経験したのであろう、ともいえる。
 でも、誰かが大きく利益を上げられるからこそ、その周りにいる人たちが恩恵を受け、食糧難を乗り越えられるのではなかろうか?
 逆に国民を巻き込んだ太平洋戦争は、単純に国民の財産を戦闘で浪費し、結果として餓死者を多数出してしまった、という最悪の例だろう。

 一方で、時代は違うが曾祖父は、開業している医院で、貧富の差なく患者を看ていた。
 貧しい人は診察代も払えなかったりするのである。
 しかし、

 「あなたの病気は薬を飲むよりも、きちんと食事を摂れば治ります。」

 まあ、そうした事例は山ほどあるだろう。
 それで、薬をただでくれてやるばかりではなく、食料まで提供するのである。
 そんなことをして、医院の経営が成り立つはずもない。
 家族からは、めちゃくちゃ言われるのである。

 誰がどうやってお金を集めたのかは分からないが、
 昭和六年に実家の方に曾祖父が建立した寺がある。

 そして、上記のような話(の良い部分)は、色々な本にも載っているので、
 なにか、勘違いをして、 「修行をしたい」 という、ダメな男や女が現れる。
 寺だと、そういうの断り切れないから、仕方のない所だが、
 うちは寺じゃないから、基本お断りなんだけど、でも勘違い男になんて言えばいいのか微妙に困っている。

 実際に勘違い男はいる。
 今でも、「坐禅」のコミュに残骸が残っているものもある。

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■「天下」よりカネもうけ? 戦国大名の意外な野望
(朝日新聞デジタル - 02月04日 21:17)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4417372

 ときは戦国、下克上の乱世。荒くれ武将たちは我先に天下取りを志して……と思いきや、とりあえず天下はおいておいて、我が道を行く戦国大名も意外に多かったようだ。では、何に目を向けていたのか。

■アジアに視線

 日本列島で群雄が割拠し、英傑がきら星のごとく輩出した戦国時代。信長しかり、秀吉、家康しかり。守護大名から戦国大名へと移り変わっていく有力武将らにとっても、天下を制することは究極のゴールだったはずだ。ところが、その熱意を海の向こうに注いだ者たちがいた。めざすは対外貿易が生む富である。

 「天下統一に動いた大名は、むしろ少数派ではなかったか。アジア的な視野と価値観で活躍した者たちがいた事実は、あまり語られてこなかった」。名古屋学院大の鹿毛敏夫教授は、そんな彼らを「アジアン戦国大名」と名付けた。

 代表格は中国地方に勢力を張った大内氏だろう。中央に食い込み、本拠地の山口には雅(みやび)な京文化が栄えた。原動力は室町政権期から培われた対朝鮮、対明交易だ。

 大内氏は倭寇(わこう)鎮圧を足がかりに朝鮮と通交する一方、室町政権への強い影響力を駆使して遣明船を経営し、珍奇な舶来品を求めて勘合貿易に乗り出す。国際貿易港の博多を押さえ、商人や禅寺ともパイプを持った。足利幕府が所持し戦乱で失われたとみられる「日本国王之印」の木製模造品すら持っていた。

 しかも自らを百済王の後裔(こうえい)とするほどの“国際派”。九州大の伊藤幸司准教授は「九州など列島周辺部で海外にルーツを持つと主張する勢力は、そう珍しくない。海外を意識するかしないか。西国と東国はそこが決定的に違った」と指摘する。
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