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2017年01月24日00:19

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佐川・伊野紀行10 牧野富太郎生家跡 / 牧野公園

 7日土曜日に訪れた佐川町出身者で一番有名な人物は植物学者の牧野富太郎博士(1862〜1957)でしょうね。
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 富太郎は、「岸屋」の屋号を持つ裕福な酒造業者の家に生まれましたが、幼少時に両親や祖父を亡くし、祖母によって育てられました。
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 富太郎は幼い頃から植物観察が好きで、10歳から土居謙護の教える寺子屋へ通いましたが、11歳になった明治5(1871)年に廃藩置県が行われ、元佐川士族のための郷学だった名教館(メイコウカン)が義校名教館(名教義塾)に改組され、庶民にも門戸を広げる事となったため入学、士族子弟と肩を並べて儒学者伊藤蘭林(1815〜95)の薫陶を受けました。明治7(1874)年に明治政府の学制施行によって佐川小学校が創設されると、名教館は閉校されたため、富太郎は佐川小学校へ移りましたが、将来酒造業者になるために小学校の授業は無意味だと判断、2年で中退してしまいました。
 そして、その後も酒造業を学ぶ訳でもなく、家業を祖母と番頭に委ねて植物採集や観察に没頭、佐川小学校の臨時教員などもしていましたが、本格的な植物学を学ぶため、19歳で上京、22歳の時、東京帝國大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などを自由に使用する許しを得ました。やがて25歳で、同教室の大久保三郎・田中延次郎・染谷徳五郎等と共同で『植物学雑誌』を創刊しましたが、これは日本で最も古く権威ある植物学誌となっています。
 26歳の時、『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めたましたが、富太郎は工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描きました。これは日本初の植物図鑑であり、かねてより音信のあったロシアの植物学者カール=ヨハン=マキシモヴィッチ(1827〜91)からも高く評価される事となりました。明治23(1890)年、28歳の時に東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得ました。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、その事を自ら正式な学術論文で世界に報告した事で、世界的に名を知られるようになりました。
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 同年、小澤壽衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えましたが、出過ぎた真似をし過ぎたために。矢田部教授によって植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまいました。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断せざるを得なくなったため、マキシモヴィッチを頼ってロシアへ渡る事まで考えましたが、マキシモヴィッチ死去の報を聞いて断念しています。
 31歳の時、矢田部教授が退任したため、帝國大学理科大学主任教授となった松村任三によって助手となる事が出来ましたが、その頃には生家の岸屋は破綻してしまっており、助手の月給で一家を養っていたものの、文献購入費等の研究に必要な資金には事欠いていました。その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残して行きますが、学歴の無い事の外、研究に熱中するあまり、参照用に借り出した大学所蔵文献をなかなか返却しない等の行為によって、研究室の人々との軋轢が生じて冷遇されるようになります。また、富太郎は金銭感覚が欠如していたため経済的には苦境が続き、家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられた事すらありますが、同郷出身で名教館の先輩でもある宮内大臣田中光顕子爵少将の援助を得て何とか切り抜けました。
 しかし、その後、松村教授と植物の命名等を巡って対立が生じ、明治33(1900)年から『日本植物志図篇』の代わりに新しく帝大の費用で『大日本植物志』の刊行を始めたものの松村教授の妨害工作により、四巻で中断してしまいました。 
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 学歴を持たず、権威を理解しない富太郎に対し、学内から何度も解任圧力がありましたが、結局は帝大に必要な人材とされ、大正元(1912)年50歳の時に講師に昇格、77歳に至るまで勤め上げました。そして昭和2(1927)年、65歳の時には小学校中退の身でありながら東京帝国大学から理学博士号を授与されるに至っています。
 昭和15(1940)年、78歳の時に研究の集大成である『牧野日本植物図鑑』を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されています。昭和25(1950)年には日本学士院会員、昭和26(1951)年には文化功労者となり、昭和32(1957)年に94歳の天寿を全うしています。没後、従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与されました。その翌年、高知市に高知県立牧野植物園が開園しています。
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 富太郎の生家跡には「牧野富太郎ふるさと館」が建てられ、資料展示が行われています。入館は無料です。
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 なお、昭和大帝の言葉として知られる「雑草という名の植物は無い」は、元々富太郎の台詞であり、それを知った大帝が援用したものです。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E+%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E9%A4%A8/@33.4990222,133.2844671,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x354e36fed9302323:0x17791e31ac1e4699!8m2!3d33.4990222!4d133.2866558
 牧野富太郎生家跡の東南、標高200m(比高160m)の佐川城跡の中腹は、牧野公園と名付けられた植物公園になっています。
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 明治35(1902)年、東京帝國大学助手だった富太郎が東京染井で見つけた桜ソメイヨシノの苗を郷里に送って来たため、地元の有志が青源寺の土手等に植えたのがこの公園の起源です。昭和33(1958)年に牧野公園と称し、「日本の桜百選」にも選ばれた景勝地として広く高知県民に知られています。
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 平成20(2008)年からは公園の桜が老木となった事から、地域住民で桜を蘇らせようと、古い桜の伐採を行い、リニューアルを進めています。
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 石垣が連なるので、佐川城の遺構かと思いたくなりますが、城とは無関係です。
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 冬なのでお花は少ないですが、ある程度は咲いていました。
 日本水仙(ニホンスイセン) Narcissus tazetta var. chinensis 
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 四国梅花黄蓮(シコクバイカオウレン) Coptis quinquefolia. var. shikokumontana
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 富太郎が最も愛好した花です。
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 普通は4〜6月が花期なんですが、高知県は温暖なので冬に開花する事もあり、一輪だけ咲いていました。
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 河原撫子(カワラナデシコ) Dianthus superbus var. longicalycinus
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 阿亀笹(オカメザサ) Shibataea kumasaca
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 壽衛子笹(スエコザサ) Sasaella Suwekoana
 富太郎が妻の名を付けた植物です。
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 隈笹(クマザサ) Sasa veitchii
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 牧野公園内には牧野富太郎博士と田中光顕伯爵少将の墓があります。
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 富太郎の本墓は東京都台東区谷中の天王寺ですが、こちらにも分骨されているのです。
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 田中伯の本墓は東京都文京区の護国寺ですが、やはりこちらに分骨されています。
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《続く》

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