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2016年12月29日08:13

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嗚呼パパイヤ

いよいよ...。
2016年という年を総括する時期になってきた。自分だけに限っていうと、かなり充実した1年。とはいえ"何かしらを成した"という訳ではなく、達成感のない充実感、という微妙なコンテンツではあったが、達成、という観念的な抑揚を要しないほど、まあ充実した。自分の積極的な働きではない結果としてもたらされたそれというのは、神さまにでも愛されているような感じすらして、逆に幸福感が高い気もする。どちらにせよ過ぎてしまったこと。結果が変わらないのなら、良い様に考えた方がいい。

戦時中、台湾で農業、とくに作物の品種改良に尽力された方が偶然にとあること発見した。そもそも、なぜそんなことをしたのか不明だが、根っこにクギを打ち込んだパパイヤ(だったか)は打ち込んでいない、パパイヤより大きな味をつけた。”負荷(困難)が大きな実を実らせる”...というところだろうか。大きな実を実らせることがヨイことというのは人間にとっては..というだけの話で、パパイヤにとっての幸せである、とは思わないのだが、少なくとも、世話をしている人々にとってはそれが都合いい。そうやった美談じみた話というのに焚きつけられて、我々は古より随分働かされてきたのだろう。

だったら自分が自分に水ヤル存在になればよい。という話なのだが、まあそういうことなのだろう。別に会社やめて自分のビジネスを始めよ、ということではなく、勤め人だろうが、皇国少年であろうが、己で己の世話をし、自分自身で負荷をかけれる関わり方をすれば良い。ついつい他人との間柄を気にするばかり己自身とのコミュニケーションをムゲにしてしまう。来年はちゃんと自分に向き合って、自分で始末が付けられる(称賛やら躾やらを外に求めたりしない)生き方を心がけようと思う。

だれかが考えた大きな知識より、自分の頭で考えた地位な知識の方が大切だし、他人の知識を積み重ねただけでは行き着けない場所というのがヒトにはあるという。その場所から眺める景色というのはどんなものだろうか。おそらく古来より蓄積された如何なる作文的技巧を尽くしても表現できず、ヴィデオで撮ってみせられてもピンとこないカモ知れない。まあそれこそが観念的な抑揚としての達成感というところなのかも知れない。
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