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2016年12月12日08:22

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法事

耳の稜線がおぼこい女子のように赤らむ。付け根辺りをすり抜ける風が内耳の組み立て式のグリコのおまけのパーツ的な小骨を震わせる。尖らせたクチビルで思いっきり吸い込んでいる音がするほどどこまでも深い冬空に吸い込まれているような寒風が吹きすさむ。そんな週末、とある盆地に行った。そして法事やらというのに参加してきた。

控えめな表現だとしても、ほぼ会うことがない面々が集まり、宗派もよくわからない、兼業僧侶の読経を聴きながら、数十分、慣れない脚の折り重ね具合で座ると足先が痺れた。僧侶の読経は節回しが上手い、というか声質が渋く(おそらく傍らでやっている副業がそれをポリッシュしているのかもしれない)聞き応えはあった。が、よく知りもしない宗派のお経というのは、自分が幼少の頃から同じようなイベントで耳にしていたそれとはやや構成が違った。なんというのだろうか、サンスクリット語に強引に音をつけたお経独特の、神秘さが薄い。なんというのだろうか、祝言のように、一部の意味がくみ取れる感じ。とはいえ、その宗派がそうなのか、最近のトレンドか、はたまた今回固有の理由(たとえばメンツの正座耐性やらギャラの額を考慮してか)によるものか、なにしろ30分そこそこで終了した。

今回参加したのは7回忌という法要。亡くなられた方が亡くなられた日付(もしくは近しい日付)の6年後に開催される。他、1年、3年、十数年、と続き、たしか50年くらいまでは予定されている。なぜ日本人は(といいっても他国の事情というのを知り尽くしている訳でもないが)そこまで死へのセレモニーを大事にするのだろう。その答えとしてこれまで、こんな答えしか持っていなかった。死者をともらうため。それは子孫崇拝や家長制度、血脈がどうしようもなく性感帯な日本人の根本をなす道徳やら通年やらを維持強化するため。が、この法事に参加し、寒い中無理な姿勢で(正座)で、さまざまな年齢と事情を抱えたさ親しいようでそうでもない人々とともに、シブ声のお経を耳にしているうち、違う理由というのが浮かんだ。

人々は忘却や老化といったマイルドで部分的な死というのに実は絡め獲られている日々だったりする。それはゆっくりとやってきて、知らんまに、人々の外堀を埋め真田丸を取り壊す。そんな風に緩慢な死に支配されている我々の日常。が、マトモに相対するとストレスでそれこそ早死にしてしまう。ゆえに死というものを、まがまがしい儀式を執り行うことによって、彼方の岸にあるものと線引する。よって死者に対する様々な行事というのは、死んだヒトではなくそれでも生きねばならない人々のためのものとも云える。大切な肉親を亡くした後、慌ただしさに救われたということはよくあること。ってことは、この12月の殺人的、というか殺人行為そのもの的な忙しさというのも、実はそれに没することによりナニかから守られているのカモ知れない。
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