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2016年12月09日10:44

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気落ちと気後れ

忙しさに埋まって没してしまっている事。仕事やら、何かしら路頭を組んでやっていることなら、誰かしらが知らしめてくれる。ある時は怒気で、またある時は嘲笑で。若い頃は(といっても若いというのがどれくらいの季節をさすのか不明だが)理不尽にも頭にきていたりしたのだが、よくよく考えてみるとありがたい話でもある。が、若くもないからか多少はオツムがよくなったからか、その簡単にいうと世の中の自助回復力、難しくマクロ経済学でいうところのナントカの見えざる手やらビルトインスタビライザー的な仕組みの有益性を腑に落とすことができてきた。そして同じ理由で(若く...等)その機能というのが余り働かなく成ってきた気がする。最近取り返しが付かないことが多い。

人々がギスギスしているからか、高度化しすぎてツールの利便性が向上し、人間の持つチェック&アドバイス機能というのが退化しているのか。おそらく両方の理由。もちろんギスギスも痺れるスピード感のツールなども前提としてやっているので、ハイスピードなスーパーカーに乗って商店街を突っ走っているような疾走感で次々とタスクをこなしているのだが、初歩的なところでミスってしまう。かなり手の込んだ申請書を練りまくり造りまくるり、職人的にハイクオリティーな、資料を描きあげたはいいが,提出を忘れていたとか。

能力の限界やら己の分際というのを受け入れていく作業、それが協調性やらを持ち社会にコミットするという、いわゆる大人になるということ。どちらかといえば老化に近いのだろうが、この年齢になってようやく、その境地に片足を突っ込んだということなのか。草木が枯れるこの季節。枯れ木やら、薄い雲が張り付いた空やら、寒々しい川の流れやらが、雰囲気を煽っている。あと何年生きられるだろう、などと漠然と思い浮かべたり。コレまで生きてきた同じ時間を自分の人生として認識しながら(つまりボケないこと)生きることができるだろうか。とか。

年末の慌ただしさが、それらを紛らせ、爪の先に灯すようでもあるのだが、それでも支給される賞与で気持ちがやや明るくなのるのだが、忙しさやキャッシュでは代替できない、失われていく若さやら時間やら。気落ちしていても仕方が無いが。多少は気落ちでもしないと後悔する気もする。

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