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2016年12月01日10:39

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密教。

もう一度、密教の話を


例えば、

理屈でいけば
どこまでも、物語を創れるけれど

理屈の前に

「転けた人がいれば肩を貸そうよ

助けようよ」

っていう感じのところが
密教には、あるのかもしれない


理屈でいけば、
なんとでも言えるかもだし
そう信じたらそうも
見えるし

垂直上の螺旋貫通の中ではさ
何もない空間がベースで
強調されうるかもしれない

その話の中では
その話は、そうだ
となりうるかもしれない


垂直上の螺旋貫通と
絶対的な空間と
偏在の中では

それは、そうなりうるけれど


そこには、
目の前の人や

創造され続けている世界なんて
ないだろう

それは、個からの
全体への螺旋貫通の中での
話なら

そこが、話っぱなら
そうなりうる


だから、禅は
空間をベースに動きが流れるように
流れうるけれども

つまり、空間に向かって
気づきを拡げていくというか
一連の流れがあるというか
そんな風なのかもしれない


実在への螺旋貫通の中で
起こりうる動きと話
という中では、
その話は、その話で
全部帰結するかもしれない


けれど

この相対性の世界と
小さな自己との関係の中で

何がより良い流れを
生みうるか?を
探険していくのが
密教的な探究かもしれない


自分は、密教をやってる訳でも
ないので
なんにも説得力もないけれど 笑

過去世では、
やってたのか

なんとなく
密教的な事について
思う事もある


とにかく、
絶対的な無への
螺旋貫通を目指す鍛錬の中での話は、

その中では、
そうなりうるけれども


密教的な方向は、
なんというか
横っ飛びな感じ


世界という創造に関して
どう取り組むのか


世の中に、なんらかの
良いことしようよ

っていうのが
なんか、ある気もする


それは、螺旋貫通の座
をベースにするより

そこから、いったん
離れるという謎の行為が

新たな扉を開けたと
言えるのだろうか?


つまり、

空海が伝えた

人の10の心

(秘密曼荼羅十住心論)のなかで

10番目の探求の出現を促した
9番目の動きがあったように

ゴールだとされた
8番目の心に
指をパチンとならして
気づかせたように


いったん、自分にとっての
境地から一歩ずれて
みることが

何かの進化を促すことも
あったりするのだろうか?


謎の行為が
次のイベントを
見出したのか



詳しくは、わからないけれど

靴の下にある地面は、
見えないけれど

一歩ずれたら
探していたものも
あるのかもしれない



密教的な方向の
探求の深さは

その一歩ずれの中に
あー へー があるのかもしれない


それはもう
個人の目覚めというよりかは

全体への働きをするための

促しと実行力を持つものかもしれない。

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