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2016年11月24日09:28

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そういえば今日から南京にいきます

東京は雪が降ったらしい。
夏の暑さの盛りやら冬のシバれのキワやらという時期には、毎年こんなだっけなあ、と思う。おそらくナニカにつけてメディアによってねつ造されるアブノーマルな気候(何百年にいちどの洪水やら干ばつやら)によって刷り込まれている、今がとっても特別に大変な時。こんな時期に雪なんて、といってももう11月も終わり、あと1週間もすると12月。この月の終わりに雪ふらねえかななどと空を見上げたりするのだが、文字を書いただけでは、それがたわいもないのか、大変なのかが解らないことが多い。よく手紙やSNSとかでコミュニケーションなんかが取れるもんだ、と個人的には思ってしまう。結局のところ、書いて伝えることなんてたわいもないことなのか。

というか書くことで具体性を削ぐことで、伝えたことの本質をわかりやすくするのか。いや違うな、具体性を含めた客観性を付加することで適正な理解を促すのか。よくわからん。が、とにかく、「・・・だよね」とかいう末尾表現をくっつけるなど、極めて個人的な意見を周知の真理的に語ってしまうところに誤解が生じるのか。そして誤解にドップリ浸かってしまえばかえって楽カモ知れないし、あえてそこに浸かることが人間らしい間柄だ、と言い切ることもできるだろう。が、そこにインサートするまで、感覚的に気持ちが悪くなることがままある。

そんな暑いか?
そんな寒いか?
そんな美味いか?
そんなヤバいか?
ちなみにヤバイというのは概ね「危険だ」という場面ではなく、飲食物が美味しいとか、対象物から受けるイイネな印象がすこぶる、とかいうことで使われる。そういった極めて個人的な見解というのを「ぢゃねえ?」とかの言いまわしでプチ客観化する。世界観の共有。まあ羨ましくもある。見解が飛んでいればいるほど、2人の間柄というのは深化するのだろう。

同じ感じで、随分と大げさな言いまわしをし、それを視聴することで、人はこころが安らぐのか。天下の副将軍の印籠やら(ふるぅ−)、葵の御紋やら(松平健のイメージ)を出されて戦く悪人を眺めるかの如く。それは人の特性だとしても、その性感帯を開発しすぎると、ちょっとヤバイことに成ってしまうような気もする。ちょっとズレたネガティブな感情を共有することで気持ちよくなる。大なり小なりあらゆる差別的な共有概念やらアクティビティーなりというのは、そのあたりがリソースになっている気がする。

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