聖書とか仏典を人間の書いたものと見るか、もしくは人を超えた方が書いたかとか
聖なる能力がある方が書いたかと
見ることで見方がちがうのかもしれない。
聖書はキリストが書いたものではない、仏典も釈尊が書いたものではない。
どちらもキリストと釈尊の言説を伝承したものであるだろう。
聖書は弟子筋が書いたものだろうし、仏典は初期仏典は
釈尊の言説が受け継がれているのだろう。
また、大乗仏典は、初期仏典以降の僧が書いているのだろう。
そんなとき、普通の人間が書いているのだとみるか、書き手が人を超えている人が
書いているとみるかで違いが出るのだろう。
普通の人間が書いているとすれば、なぜ、その書き手がそういう考えに至ったかを
客観的にみることが可能になるだろう。
人を超えている人が書いているとすると、書き手が考えた思考の上を
あまり考えず、捉えることになるのだろう。
聖書学などは、教会で教える教えと、大学などでの研究の考えの齟齬が
出ていたりもする。
ただ、人間が書き手がなぜそんな考えに至ったかを考えずにその書き手の世界観を
無条件に受けっとった方が楽な場合も多々ある。
信じることというのは力でもあるようにも思う。
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