あるサイエンスライターが理系の科目は当然、得意としている。しかしながら、国語について、解釈が自由ではないから嫌と述べていた。それにしても不思議に思ったりする。理系の数学でも物理でも化学でもその学問を自由に解釈していいものではないだろう。国語
ノーベル賞を受賞した赤崎博士は哲学者 三木清に影響をうけているようである。理系の学問はその学問に邁進しないと成果を得られない。だけれど、邁進しても人生観を得るに必要な考え方は必要だと思う。邁進するためにも必要に思う。赤崎先生にとってはそれは
こんなことばが有名。ですけれど、このことばなにがいいのか分からない。このことばがいいとされるのはある倫理観からでしょう。しかしなら、その倫理観を支える論理を教えない。賛美する人がおおいので不思議にはおもっていたが、ある歴史学者も、このことば
新聞で雇用統計が発表されるとミスマッチとかよく書かれたりする。このミスマッチということばは不思議に思う。結果的にはそうなのかも知れないけれど別な問題が生じているのではないだろうか。産業構造の変化が起きている。いまある仕事も10年先、20年先はど
先日の番組のタモリさんの言動らしきものとその他をネットからひろってきました。「(モーレツ社員の生まれた背景について)自分と向かい合うのを避けるためだったのではないか。それが人間にとってつらいこと。働いていれば誰も後ろ指ささない」自分と向き合う