会社をサボ^h^h休んで、川崎重工で復元された「飛燕」を見てきました。
そこにあったのは「これで、戦った」という静かな重み。現物だけがもつ、ずっしりとした「存在感」でした。
当時、日本陸海軍の飛行場は舗装されていなかったことがほとんどだったといいます。米軍などの攻撃を受けて大穴があいたのをシャベル、ツルハシ、もっこで直すのが基地の維持を行う施設部隊の仕事だった、という本もありました。
主翼前縁は小石などが当たったのでしょうか、打痕が多数あります。
発熱の大きな発動機(エンジン)のための冷却機構はおどろくほど精巧につくられたラジエータでした。真鍮の六角パイプを隙間0.6mmづつあけて両端をはんだづけする、という方法で作られていました。パイプの内側は空気が、外側にある0.6mmの隙間に冷却水が流れるため、はんだづけ箇所に漏れがあってはなりません。どうやって作ったのか信じがたいほどの構造です。
そして「飛燕」には過吸機がありました。日本で唯一、10000メートルまで上がることのできた機体だといいます(海軍の零戦は6000メートルぐらいに限界があった)。それを可能にしたのが遠心過吸機でしたが、発動機は回っても、与圧されていない飛行機ですから、人間のほうは薄い空気に苦しんだはずです。
こんな、どちらかというと小さな飛行機に命を預けて、将来の日本人、つまり我々のために戦い抜いてくれたひとびとがいた証拠です。パイロットだけでなく、整備員も、施設関連のひとびとも、みな、いのちがけでした。
今はただ、静かにそこにいる飛行機。
できれば現代の日本の空を見せてやりたい。
我々は、彼らが守ろうとした空を、国土を本当に次世代に誇りをもって引き渡せるのか。
そう、問いかけられた気がします。
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