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2016年09月15日01:33

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まさかのAKBからクリムゾン

先日、ラジオで加藤ひさしが、松田聖子の「白いパラソル」とAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」を比較して面白いことをいっていた。
「白いパラソル」には松田聖子が歌うからこその魅力があり、対して「フォーチュンクッキー」には、誰が歌ってもOKな普遍的な魅力がある――と。

そういう見方もあるのか、とちょっと驚いた。
少なくとも音楽に関しては、AKBはAKBならではの独自の表現を持ち得ていないことが最大のネックだと思っていた。
曲の良さ以外に評価できるポイントは特になし、と。
勿論そうした表現のクオリティを求めること自体がナンセンスともいえるわけだけれど。

音楽に限らず表現というものは、その人でなければ表現できないもの=オリジナリティ=記名性が重要なポイントとなる。
そもそも誰でも表現できるものなら、表現としての価値はないに等しいわけで。
しかし、AKBが表現しているのは、誰でもOKな、ある種の匿名性(=普遍性?)ということなのか。
確かに「フォーチュンクッキー」のヒットには、誰もが歌いやすく踊りやすいということが、大きく作用していたように思う。
その間口の広さこそが、AKBのオリジナリティということになるのかね。
記名性ではなく匿名性の効用、とでもいえるか。

そこでふと連想したのが、他ならぬキング・クリムゾン(またかよ)
クリムゾンもまたある種の匿名性に裏打ちされた表現である。
例えばミック・ジャガーが歌わなければ、ストーンズの音楽は成立しないが、クリムゾンは別に条件や資質が合えば誰が歌っても構わないところがあり、そうした意味では、匿名的な表現ということができる。
勿論ロバート・フリップの記名性は厳然と存在するが、それでも仮にフリップ抜きでもクリムゾンの音楽は成立可能な気がする。
そこが、クリムゾンが他のロックアーティストとは決定的に違うポイントだろう。
そう考えると、AKBとクリムゾン、相通ずるものがある、といえないこともないのかもしれない――?

そういえば、昔「ロッキング・オン」に、ロバート・フリップがおニャン子クラブの音楽に衝撃を受け、おニャン子のメンバーを引き入れて「ニャンコ・クリムゾン」の結成を目論む、という架空ドキュメントが掲載されていた。
今思い出してもあれは面白い原稿だったなあ。
そんな原稿の存在まであることを考えると、おニャン子=AKBとクリムゾン、意外と相性が良かったりして――まさかね(?)

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