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2016年08月13日02:58

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第2、第3どころか……

以前聞いた話では
「ジハーディ・ジョン」という渾名の「ジョン」は
ビートルズのメンバーにちなんで
「ジョン・レノン」からつけられたという。

だからすでに彼の他にも
ポールとかリンゴとかジョージとか、
そういう渾名をつけられた
「ジハーディスト」が複数存在するのだろう。

それにしても
よりによってビートルズのメンバーから名づけるとは
さすがはジョンブル、
英国風味のエグいブラックユーモアだなぁ、

……と思っていたのだが。

あれはガセネタだったのかな?

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後藤健二さんを惨殺したISの処刑人
「ジハーディ・ジョン」が生まれるまで


 2015年、ジャーナリストの後藤健二さんと湯川遥菜さんがイスラム国(IS)によって殺害された。日本人が初めてISに人質として拘束されたこの事件、IS側は日本政府に対して身代金2億ドルを要求。72時間の猶予を発表したが、その結末は2人の死という最悪のものとなった。

 当時、公開されたビデオには、オレンジ色のジャンプスーツを着て、カメラに向かってひざまずく2人の間に、黒ずくめの男が立っていた。ナイフを握り、覆面をかぶったその男のニックネームは「ジハーディ・ジョン」。ISの処刑人として、数々の西側ジャーナリストや活動家たちの首を斬ってきた、残忍極まりない人物だ。

 しかし、この極悪非道なジハーディ・ジョンの生い立ちを丹念に読み解くと、彼もまた「対テロ戦争」の被害者だったのか……? と、考えが揺らいでしまうだろう。イギリス人ジャーナリスト、ロバート・バーカイクによる『ジハーディ・ジョンの生涯』(文藝春秋)から、この「処刑人」の半生を見てみよう。

 ジハーディ・ジョンことムハメド・エムワジは1988年、クウェートに生まれた。湾岸戦争の戦火に巻き込まれたエムワジ一家は93年、イギリスに亡命。西ロンドンのメイダヴェール地区に移り住んだ。家族はアラビア語で話し、母はヴェールをかぶっていたが、一家は決して敬虔なムスリムというわけではなかった。特に、マンチェスター・ユナイテッドの熱狂的なファンであったエムワジは、幼少期には『シンプソンズ』を愛し、中学から高校にかけては、ジェイ・Zやエミネムなどのヒップホップを愛聴した。ベースボールキャップをかぶり、マリファナを吸い、アルコールに酔うやんちゃな少年だったのだ。

 そんな彼の人生の転機となったのは、イスラム過激派グループとの交際。近所に住むムスリム移民のモハメド・サルクは、過激なイスラム思想を持つとしてMI5(イギリスの諜報機関)から徹底的にマークされた人物であり、エムワジの世界観にも多大な影響を与えたと考えられている。折しも、05年のロンドン同時爆破テロ以降、保安当局はイスラム過激派に対して目を光らせ、イスラムグループの若者たちを徹底的にマークしていた。その追及の手は、ウェストミンスター大学で学ぶエムワジにも及ぶようになる。サルクなどの人物を介してイスラムグループに入り浸るようになった彼は、日に4〜5回の祈祷を行い、コーランの暗記も始めるなど、徐々に信仰に目覚めていった。また、周囲の仲間だけでなく、インターネットでイスラム過激派の「ジハードに参加せよ」というプロパガンダに触れ、その思想を先鋭化させていったのだ。だが、その頃はまだ過激な思想を持つ、その他大勢のムスリムにすぎなかった。

 そして皮肉にも、このMI5のマークが、彼をムスリムから「ジハーディスト」へと脱皮させていった。

 MI5は、イスラム過激派グループの若者たちに近づき、MI5のスパイとして働くか、テロリストの認定を受けるかという選択を迫るなど、脅迫のような行為でムスリムたちを追い込んでいく。その申し出を断ったエムワジを待ち受けていたのは、長時間にわたる拷問や、婚約者の家族に対する取り調べの末の婚約破談など、「嫌がらせ」の数々だった……。

 MI5によって生活をむちゃくちゃにされた彼は、人生の再スタートを求めて祖国・クウェートに渡る。コンピュータ・プログラマーとしての仕事を見つけ、クウェート人女性との婚約も果たしたエムワジ。しかし、またしても、彼の幸福はMI5によって打ち砕かれた。ロンドンに一時帰国したエムワジは、クウェートに向かう飛行機の搭乗時に、テロリズム法のもとに取り調べられ所持品を没収。さらに、警察官に暴力を振るわれ、イギリスからの出国を禁じられてしまったのだ……。一度ならず二度までも幸福を奪われたエムワジが、怒りに打ち震えたことは想像に難くない。

 もちろん、諜報機関としては、イスラム過激思想に触れる人間を監視する必要がある。しかし、その行動は、「嫌がらせ」と言えるような行き過ぎたものだった。ロンドン時代のエムワジは、バーカイクのインタビューに対して「MI5に人生を台無しにされた」と嘆く、紳士的で礼儀正しい青年だったという。

 13年、厳しいMI5の目をかいくぐってイギリスを脱出したエムワジは、失うものもないジハーディストへと成長していた。ISに参加すると、人質となった西洋人たちに拷問を加え、カメラの前で人質たちの首を斬り、世界中を震撼させる。ロンドンにおいては、不良のケンカ程度しか暴力の経験がなかった彼は、ムスリムとしてのプライドや、過激思想、そして、MI5に対する恨みなど、さまざまな要因が絡み合って、「ジハーディ・ジョン」へと生まれ変わったのだ。後藤さん、湯川さんをはじめ、カメラの前で殺害した人質や捕虜は数十人にも及ぶ。

アメリカやイギリスなど、対テロ戦争を戦う西側諸国から、最重要指名手配犯として血眼で捜索されたエムワジは、15年11月12日、アメリカ軍のドローンからの空爆を受け、殺害された。

 イギリス政府は、イスラム過激主義に対して「ゼロトレランス(不寛容)」という厳しい態度をもって臨んでいる。テロの防止という掛け声のもとに、ムスリムやムスリムコミュニティに所属する多くの人々を「テロリスト」と見なし、時には人権侵害も辞さない振る舞いに及ぶ。エムワジが殺害された翌日には、フランス同時多発テロが起こり、「非常事態宣言」のもとに1万人の「要注意人物」が取り調べられた。現在も、ヨーロッパ各地で「テロリスト」の汚名を着せられているムスリムたちは、西側政府や市民への不満を募らせている。今後も、ヨーロッパ中で、第2・第3のジハーディ・ジョンが誕生するのは、時間の問題だろう。
(文=萩原雄太[かもめマシーン])

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=53&from=diary&id=4141004
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