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2016年05月28日10:01

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マスターができるまで ナツコの恋 44

『湯のみ?』
思わず、俺は聞き返していた。
ナツコは愛おしそうに、湯のみを手にとると
『そうよ。』
と頷き
『これを焼いたんはいつの事じゃったか覚えとるでしょう』
と聞いて来た。
それは忘れもしない今年の元旦の夜の事だった。
真っ赤に燃え盛る窯の前に陣取ったシノハラさんの姿は、数ヶ月たった今でも、決して忘れてはいなかった。
『お正月の晩じゃ』
俺がそう答えると、ナツコは
『そう
お正月の晩じゃったね。
先生やヨシヒロちゃん、それからオカザキ君も交えてみんなで見に行ったもんね。
あの晩から三日三晩、寝ずの番で、窯のもりをしてシノハラ先生はこの湯のみを焼いたんよ。
三日三晩よ。
そんなシノハラさんが、どうして、八木のおじさんの家に火を放ちに行ける?
どこにそがな時間がある?
そうでしょう。』
と言った。
言われてみるとその通りだったので
『あ、そうか、、』
と俺は言った。
『でも誰かに窯のもりを代わってもらって、そのかんに行けるかもしれんがな。
絶対とは言えんじゃろ』
言ったもののどこかシャクだった俺は理屈のための理屈のような反論を試みた。
俺はナツコの顔をじっと見た。
怒るかと思いきや、しかし、ナツコはと悠然としており
『代わってもらうてダレに?』
と穏やかに聞いてきた。
余裕綽々の物言いだった。
『それはダレかじゃ
わからんけど、たとえば奥さんとか、、』
苦し紛れに俺がそう言うとナツコは
『はん』
と鼻で笑い、
『あの鬼のような奥さんが?
シノハラ先生に一日でもはやく陶芸家やこ辞めてもらって、平凡なサラリーマンになって貰いたいと願っている、つまらん根性の奥さんが?
シノハラ先生の代理を引き受ける。
そがん事、ありえん、ありえん』
と手をふり
『第一、百歩譲って、奥さんが引き受けたとしてもじゃ。
あの複雑に入り組んだ窯の中の事、覚えとるじゃろ。』
と言った。
俺は
『そうじゃなぁ、、』
と言った。
見せてもらった窯の中は緩やかな勾配を持って奥へ奥へと伸びており、通路を挟んで左右の壁にはタナが設置され、その上のいくつもの焼き上がりを待っている焼き物達が並んでいた。
俺が、その時の光景を思い出していると、
『じゃろ。
無理じゃろ』
とナツコは確認するように言い、
『燃えさかる火をよけつつ、左右、順番を間違えず、あの中にマキを投下する事ができるじゃろうか。
それもタダ投げるんじゃぁねぇ、焼き物に当てんようにしながらよ。
一つ間違って、投げたマキが焼き物に当たってみられい。
木っ端に割れてしまうんじゃけん。
まぁ、一回や二回ならできるかもしれん。
じゃけど、少なくてもじゃ、八木のおじさんの家にまで行って、あげく、火を放って帰ってくるというのは三十分や一時間ではできん事よ。
それだけの時間、シノハラ先生の代役が勤まる人やこおるじゃろか?
「投げてみるか」
て、シノハラ先生に勧められた時、ヨシヒロちゃんじゃって
「できん、できん」
言うて尻込みしとったが。
私は辛うじて一回だけ投げさせてもろうたけんど、
ね。
じゃから、そんな事がやり通せる人言うんは、百戦錬磨のシノハラ先生にしかおられんのんよ。
代役がきく事じゃぁないんよ。
その事をこの湯のみが教えてくれたんよ』
と言った。
取りようによると、自分だけは投下する事ができたという事がどこか自慢そうなナツコの物言いだった。
俺が
『それはそうじゃけんど、、』
と言い返しそうになった時、俺達の背後から
『湯のみがどうしたて?
ナッちゃん、湯のみの講釈やこどうでもええけん、掃除はすんだんか?
ヨシヒロのアホの相手やこしとったら夕方になってしまうで』
と言う父の声がした。
俺達は飛び上がった。
おしゃべりに夢中になっていたあまり、父の帰ってきた気配を、俺達は迂闊にも聞き漏らしていたのだった。



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