緒方洪庵ゆかりの適塾旧宅から数百メートル、車や人が忙しく行き交う大阪市中央区今橋3丁目の日本生命・本社ビル側壁に、一つの古い石碑がひっそりと立っている。これは亨保9年(1724年)この地に創設され、明治2年(1869年)まで続き、のちに大阪大学法学部の祖となる儒教を中心にした学塾・中井懐徳堂の旧跡を示すものである。この学塾は町人、武士など身分に分け隔て無く全国から学生を受け入れ、町人のつくった極めて水準の高い学問所として適塾と並んで約150年間栄え続けたのである。ところで、この学塾最後の預かり人兼教授中井修二(号は桐園)の長男中井木菟麻呂(なかいつぐまろ)は意外にもロシアとも深い関係があった人物である。懐徳堂創始者から第6代目にあたる中井は安政2年(1855年)大阪に誕生し、その後儒教を中心に学問を深く修めた。
しかし、幕末動乱の時代に、しだいに家運も傾き、明治2年新政府の学制改革によって木菟麻呂が15歳の時懐徳堂はついに廃校となった。そして、中井の父桐園はその広大な敷地、建物、家財道具すべてを売却し、本庄村(現在の大淀区)に移住し細々と私塾を続けた。こういった一家が最も苦難の道を歩んでいた時代に中井青年は、若きニコライ大主教の布教するロシア正教に出会い、後に十啓の一人に数え上げられるほどの熱心な信徒となる。明治6年正式にキリスト教布教が解禁されると、大阪ではすぐに、ペトロ笹川定吉、エウヒミー修道司祭が西区川口の外国人居留地を本拠に熱心な布教活動を展開した。そして、明治11年中井兄妹を含む33名の受洗者が大阪で初めて信者となり聖パンテレイモン会と名ずけられ、彼等は数ケ所の講義所を開き、さらに手分けして布教を続けた。中井の異母妹・終子は『幕末1854年ディアナ号で大阪に来航したプチャーチン提督もこの懐徳堂を訪れており、同乗していた後の初代函館領事ゴシケビッチなどとも父、・中井桐園は面識があった』と述べている。その後、兄妹2人はパウエル・中井及びワルワラ・中井として自給伝道者の活動を大阪、播州、和歌山方面で始める。更に、ニコライの再三の求めに応じ、2人は上京を決意し、神田ニコライ堂に於いて、ニコライ大主教と共に新訳聖書の翻訳に没頭することとなる。そして、20年の歳月を費やして、遂に日本最初のギリシャ語原典から直訳されたより正確な新約聖書(現在も使用されている)を刊行する。この翻訳事業について懐徳堂で修めた中井の漢学の素養が大いに役立ったことは言うまでもない。その後、2人の聖典翻訳事業は1912年のニコライ大主教の死まで日露戦争をはさんで続行され、2人は毎日数時間以上も書斎に寵り翻訳作業に没頭していたという。ニコライ大主教の死後、大阪に帰郷し大阪梅花女子専門学校で教鞭をとっていた中井は、最後まで、神の僕としての人生を全うし、昭和18年3月25日(1943年)、88年に渡るその生涯を静かに閉じた。25才のニコライ・カサートキンによって函館に伝えられたロシア正教は燎原の火のように、日本全国に広がって行く。そして、やがて多数の伝道所、教会が建設されキリスト教解禁後、続々と名乗り出た隠キリシタンを含め、カトリック信者が5万人の明治中期、ロシア正教信徒はプロテスタントをはるかにしのいで、2万4千人にも達していたのである。大阪ハリストス正教会として再建された大阪で唯一のビザンチン様式のロシア正教会(大阪府吹田市山手町1‐8-15)の鐘は『日露友好の証』でもあるニコライ大主教と中井木菟麻呂の『まごころの交流』を伝えるかのように今日も澄みきった音色を大空に響かせている。 (日本ユーラシア協会機関紙1996年11月15日号掲載)
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