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2016年04月03日23:14

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納棺夫日記/太宰治/花見

この週末は近所の大きな公園に花見に行った。妻の友人がたくさん来ているも
どことなく所在なく子供が遊具で遊ぶのをいいことに、カバンから「納棺夫日記」(文春文庫) 
を取り出して読んでいた。

いきなりで恐縮だが、驚かないでいただきたい。

最近「死」ということを考える。

確実に自分が「死」に近づいていることを感じるからだ。それは自分というより周囲
からそれを感じるといったほうが近い。

子供はどんどん成長していく。時々実家に帰ると両親の白髪が増えている。
その間にある私もどんどん老いていく。

さらにここでいきなり話が脱線していくことをお許し願いたい。

16歳のころ太宰治の小説を読んで衝撃を受けた。今でも覚えている。高校に入った一年目
自転車通学の行きかえり、琴電太田駅の近くに古本屋があった。

マンガもあれば実用書の類、文庫本もあるごく普通の古本屋だ。そこに並んでいたのが
新潮文庫の太宰治の文庫群であった。

一冊100円程度であるから高校生の小遣いでも十分買えた。ほぼ全ての文庫があったので
三週間くらいかけてほぼすべて買ったと思う。

現代国語の授業中、「国語などは自分で勉強するものだ」と、勝手に豪語し、「人間失格」
を読み、しばらく口をきけないほど衝撃を受けた。それから、たくさんの短編を読んだ。
短編は短い中に技巧をいかにこらせるかを見ようとした。自称短編通になった。

巻末は奥野健男氏が解説を書いていたがかれの解説も私の感覚に近いものがあり、
表現力に乏しい私の言葉を代弁してもらっているように思えた。

いつも憂鬱な顔をしている太宰治の顔を思い浮かべながら読んでいた。
彼の表情には「死」が詰まっていた。

あれからもう20年がたってしまった。

吉本隆明が晩年の太宰治を訪ねた時のことをエッセイで書いていた。
くさくさした気持ちで飲んでいる太宰に学生の吉本が話しかけるのだ。

作品に対しては今ではずいぶん感じ方も違うが、晩年、彼が家庭の安息の中に生
きられなかった理由もほんの少しだけわかる気がする。

一体人は老いとか死についてどのように考えて生きてきたのだろう。
この感情を何と呼ぶべきなのだろうか。

そんなことを考えた2016年の春であった。



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