先ず冒頭に、
沖縄は先の太平洋戦争で、唯一地上戦の行われた土地で、次の本土上陸の作戦までの時間稼ぎをした防波堤の役割をしました。日本は本土上陸をされるまでに両手を挙げましたので、本土での沖縄戦に匹敵する悲惨な戦争は免れた訳です。沖縄戦で犠牲に成った多数の沖縄の人に対して、私達は深甚の哀悼を捧げる事を忘れてはいけません。
その延長線上に在る“沖縄の基地問題”も、 在日基地の75%以上もが沖縄に集中している現実に対して、本土人(大和んちゅう)は大いなる負い目を感じる物なのですが、日本政府は口先ばかりの基地削減論を散発するものの、実態は放置・存続を認めていると見ざるを得ません。
それはあの安保条約締結以後、日本政府は手を変え品を変え沖縄の懐柔策を実行して来た事に、充分窺えます。つまり、何時も札束で沖縄の人の面を張って来たのです。 更に沖縄の人の中には何時の間にか基地の補償金或いは基地商売で、生きる事が抵抗感なく出来る様に成ったのも、現実に存在し、我々部外者が其れを責める事は単なる外野の野次馬に過ぎない、と言う事も承知すべき事だと思います。
と言う事を踏まえた上で、
今度の「宜野湾市長選」の結果を見るに、理性的には上に書いた事を理解しなければならないと言う物の、下世話な話、「なんだ! そう言う事か ! 」 であり、「大和んちゅうは、此れをどう理解すれば良いのか?」であります。
屋久島の自然の「多様性」の様に、沖縄の人の「多様性」も認めなくてはいけませんが、現実論、即ち「暮らしの維持」が理想論に終われない難しさをまざまざと見せつけられた思いです。
ただ此処で私の頭を翳めた思いは、白人建国後のニュージィランドの先住民、「マオリ族」の現状が沖縄にダブって来た事で、人間の弱さと言いますか、複雑な物を感じます。
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