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2016年01月21日09:17

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とどろきからとどろきへ

若い頃、しばしば雑誌などで日本全国の難読地名、駅名が列挙されているのを見た。そして驚いたことには、当時自分が住んでいた地の最寄駅がそこに入っていたのである。住んでいたのは、東京は世田谷区の深沢というところで、東急大井町線の等々力が最寄駅だった。「とどろき」と読む。そしてそこには、同じ読み方をする「驫木」という駅も載っていた。こちらは青森県の五能線の駅だという。同じ読みで表記は全然違う、しかもどちらも難読の駅が、こんなに離れてあるというのが不思議だった。

そこで大学受験も片が付いた早春、等々力発驫木行きの旅に出ることにした。そこで時刻表を見て驚いた。五能線は秋田県の東能代から日本海沿いに自然遺産になった白神山地の海側を回って青森県の川部まで、150キロ足らずの路線だが、この間を走るのに当時6時間も要したのである。こんなに遅い汽車が本当に走っているのだろうか、と信じられない思いだったが、乗ってみたら、当然のことながら本当だったのである。そして、なぜそんなに遅いのか、乗ってみたら良くわかったのであった。

さて、まだまだ寒い日が続いていたある日、私は等々力駅でこの旅行の最初の足跡を印し、新潟、秋田を経て東能代の駅に降り立ち、跨線橋を渡って五能線の列車に乗り込んだ。当時五能線には、同じ列車の中に客車と貨車を一緒に連結した「混合列車」が走っていた。まことに今昔の感に堪えないという気がする。さらには、この列車を牽引する機関車は、国鉄最古参の「8620型」と称する蒸気機関車だった。この老機関車は、明らかに愛着を持って手入れされていて、車体も足回りも黒光りし、つやつやとさせて、老いてなお意気盛んといった感じだった。当時末期症状が近づいていた国鉄の職場の荒廃も、この本州最北端に近い線区までは到達していなかったのでだろう。

列車が発車するとすぐに、終点までそんなに時間を要する原因がわかった。ひとつは、何しろ加速が遅いことだ。機関車は列車を渾身の力を振り絞って引っ張っているのがよくわかるのだが、ちっとも速度が上がらない。機関車の煙突からは、時々ドーナツ形の煙が上がり、それがくねくねと形を変えながら空へ昇っていく。何とものどかな眺めだが、機関車を見ると、笑いごとじゃあねえんだぞ、と言いたげな様相だ。

時間がかかるもうひとつの原因、まさにこちらが主要な原因なのであるが、この列車が「混合列車」であることだった。少し大きめの駅では、貨車の連結と切り離しをする。機関車は駅の構内をまめまめしく動き回り、あっちの線へ貨車を置いたり、こっちの線の貨車を持って来たり、まあ大変な忙しさだ。その間20分でも30分でも、お客さんは待たされる。客車の中でぼんやりどことも言えず眺めていると、どのくらい時間が経ったのかわからなくなる。ようやく出発となって、何分停まっていたのか考えると、2分とも20分とも思えるのであった。

けれども、こんなに待たせるなんてけしからん、などとは少しも思わなかった。車内の他のお客さんも、辛抱強く待っている。私には別に急ぎの用事があるわけではなかったこともあるが、一所懸命働いている機関車を見ていると、そんな気にならなかったのである。遠い昔颯爽と急行列車を牽引した8620型は、鉄道の近代化に追われ追われて、今はローカル線で最後のご奉公をしている。自分に残された仕事はもうこれしかないのだ、だからこそこうしてできる仕事に打ち込んでいるのだ、機関車がそう言っているような気がした。

線路は日本海の海岸線の際に沿って続いている。列車は、その頼りなげな線路を端から少しづつ律儀になぞっていく。場所によっては波打ち際ぎりぎりを通るところもある。海が荒れた時は、列車が波を被ることもあるのではないかと思ったが、まさかこの翌年に本当に列車が波に浚われる事故が起きるとは予想しなかった。

もうずいぶん長いこと硬い座席に腰掛けて、頭の中がすっかり空っぽになった頃、列車はついに驫木駅に到着した。何と!これが同じ「とどろき駅」か!その駅は、海岸段丘の上にホーム1本だけを載せた無人駅で、あたりには美事なほど何もない。背の高い木らしい木もない。等々力駅は東京でも人口の最も多い世田谷区の駅、驫木駅は本州も最北端に近い荒涼とした、たったひとりで初めて訪れるには余りにも寂しいところだった。厳冬期の風雪がいかに厳しいものか、容易に想像できた。

ふたつの「とどろき」は、全く性格を異にする駅だった。けれどもそれからは、等々力駅で乗り降りするたびに、等々力渓谷の森をかわすカーブの向こうから、あのひたむきに働く8620型機関車がやってくるような気がした。

(写真は私の8620型)
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