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2015年12月23日07:27

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鎌倉市さんぽ「玉縄・大船観音から玉縄城跡」

鎌倉市さんぽ「玉縄・大船観音から玉縄城跡」

○「黙仙寺」(岡本1-4)
大船駅の西方、大船観音寺の北側に「黙仙寺」があります。明治42年、濱地八郎という人物が、自ら信仰する金剛経を広めるため、永平寺管長日置黙仙禅師を開山に迎え、静岡県にあった祐昌寺という寺を移しました。本尊は釈迦牟尼仏。大船観音建立の中心だった高階瓏仙は、黙仙寺の二世です。

○「大船観音寺」(岡本1-5)
昭和4年、永遠平和のために地元有志が大船観音の建立に着手、戦前に像の輪郭ができあがりましたが、戦争により未完のままになっていたのを、戦後、曹洞宗管長高階瓏仙禅師らが中心となり財団法人大船観音協会を設立し、昭和35年に現在の像に完成しました。高台から大船のまちを見守る姿は電車からも見え、人々に親しまれています。昭和56年から大船観音寺となり、伽藍が整備されました。境内には原爆慰霊碑などもあります。

○「岡本神明神社」(岡本2-6)
大船観音寺から西に向かい、玉縄交番前交差点の手前を左に入ると「岡本神明神社」があります。創建年等の詳細は不明。古くから、五穀豊穣と村民の安寧の社として崇敬されてきました。
【岡本神明神社の庚申塔】
社殿への長い石段の手前の左手に、2基の庚申塔があります。

○「谷戸池」(玉縄2-7)
玉縄交番前交差点の北方に「谷戸池」があります。今泉の鎌倉湖(散在ヶ池)や笛田の夫婦池と同じく、農業用水用の溜め池でした。池の周りには桜の木が植えられ、桜の季節には多くの花見客で賑わいます。
【谷戸根地蔵堂】
谷戸池の東に「谷戸根地蔵堂」(子育て地蔵)があります。
【谷戸根地蔵堂の庚申塔】
谷戸根地蔵堂の右横に4基の庚申塔があります。

○「内耕地の庚申塔」(玉縄3-371付近)
玉縄交番前交差点まで戻り一本西の道に入って、南に玉泉寺へと向かうと右手、ブロックに囲まれた民家の敷地の一角に5基の石塔があり、うち2基が庚申塔です。

○「玉泉寺」(玉縄3-687)
玉泉寺は、江戸時代に小林若狭という人物が建立しました。山号の「聖天山」は、背後の山に聖天の祠があったことによるといいます。本尊の不動明王像は、胎内に小さなお不動さまを抱えていることから「胎内不動」と呼ばれ、この胎内の像は願行上人が作ったものとされています。願行は、泉涌寺派の法燈を鎌倉に植えつけた僧(泉涌寺第六世)で、大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造したことで知られています。
【よくばり地蔵】
どんな願い事でも聞いてくれるといわれています。
【小林若狭一族の墓】
玉泉寺背後のやぐらには、小林若狭の父とその部下一族数十名が葬られていると伝わります。

○「龍宝寺」(植木128)
南に向かい、バス道路を右折してトンネルを潜ると「龍宝寺」があります。文亀3年(1503)、玉縄二代城主・北条綱成が建立した瑞光院を起源とし、天正3年(1575)、四代城主・氏勝が三代城主・氏繁を弔うために現在地に移し、氏繁の戒名により「龍宝寺」と称するようになりました。歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されています。境内には「新井白石の碑」があり、龍宝寺のある植木は新井白石の知行地となっていた時代があります。
【玉縄ふるさと館】
境内入口の右手「玉縄ふるさと館」(民俗資料館)に、旧石井家住宅があります。石井家は名主級の農家で、建築年代は17世紀末ごろです。戸口や窓などの開口部を少なくした、神奈川県の民家の様式をよく表しています。
【龍宝寺の庚申塔】
長い参道の途中の左手に3基の庚申塔があります。中でも、寛文8年(1668)銘の庚申塔は鎌倉市文化財になっています。

○「諏訪神社」(植木96)
龍宝寺から北に向かうと、「諏訪神社」があります。永正9年(1512)、北条早雲が玉縄城築城の際に城内(諏訪壇)に勧請したとされます。元和5年(1619)、玉縄城が廃止となると村人によって現在地に移されました。その際に関谷の御霊神社と合祀されたため、扁額には「諏訪・御霊両大神」と記されています。 

○「玉縄城跡(諏訪壇)」(城廻200付近)
諏訪神社から北の清泉女学院に向かうと、入口左手に「玉縄城跡」の「諏訪壇」があります。現在は清泉女学院の敷地内であるため、見学には事前に学校の許可が必要です。諏訪壇は本丸の東側にあった土塁で、玉縄城の最高部にあたり長方形の平地になっています。城内の最も高い場所で見張り台の役割を果たし、また城主が最後に立てこもる場所であったとも考えられ、城の守護神である諏訪神社(植木96に移設)がまつられていたと伝えられています。
玉縄城は永正9年(1512)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城されました。大永6年(1526)の安房の里見実堯の攻撃も、永禄4年(1561)の上杉謙信の攻撃や永禄12年(1569)の武田信玄の攻撃にも耐えました。代々の城主は、氏時(初代)、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝(六代)。しかし、難攻不落と呼ばれた玉縄城も天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城しました。その後、本多正信が城主となりましたが、元和5年(1619)に廃城となりました。玉縄城址は、開発が進んで当時の面影を残すものは少ない中で、諏訪神社・龍宝寺からの「七曲坂」と、久成寺からの「ふあん坂」には、当時の面影がよく残されています。
【玉縄城址の碑】
諏訪壇に入る石段下に「玉縄城址の碑」があります。
【七曲坂】
諏訪神社まで戻り、植木谷戸バス停から西に向かうと「七曲坂」があります。玉縄城の大手門への道で、現在もその面影が残されています。急坂で、いくつにも折れ曲がっていることから七曲りと呼ばれており、今でものぼりが数本あります。玉縄城側に上りつめた両側は土塁となり、土塁の内側は平場で下から攻め上がる敵を攻撃、防御できるようになっていました。
【太鼓櫓跡】
七曲坂上の左手に「太鼓櫓跡」があります。玉縄城址の周辺も宅地化が進んでいますが、諏訪壇から大手口とされる切通しを挟んだ南側の太鼓櫓と呼ばれる小ピークを中心に、緑地公園化が成されつつあるようです。太鼓櫓の麓にはイラスト付きの説明板が設置されています。太鼓櫓は、櫓台というよりは2〜3段に削平された中規模の曲輪で、その先の細尾根にも曲輪と堀切が続いているようです。
【陣屋坂上の玉縄城址碑と庚申塔】(植木433)
七曲坂から車道を行くと、右手に玉縄城大手口(清泉女学院南門)が見え、その先に陣屋坂(バス道路)が上がってきています。陣屋坂上の三叉路、南東角の高くなったところに「玉縄城址」の碑があり、その左横に3基の庚申塔があります。
【第六天社】(城廻337)
陣屋坂上バス停の向かいに「第六天社」への階段があります。第六天とは仏法の敵であった第六天魔王のことで、具体的には牛を従えて現れるヒンズー教のシバ神ですが、仏に帰依して寺院を守る神になりました。織田信長の異名「第六天魔王」としては、一向宗との争い、延暦寺焼き討ちの頃から、仏徒らにそう呼称されたようです。しかし信長自身この呼び名を嫌ってなかったようで、信玄からの書状の天台座主沙門に対抗して、自ら第六天魔王と自称していました。第六天社という神社が関東には数多くあって、それは後北条氏の支配地に広がっているようです。
【相模陣稲荷神社】(植木435)
第六天社の南下、グリーンマンション入口を少し入ったところに「相模陣稲荷神社」があります。相模陣という地名は、玉縄城の南側を守るための陣屋があったため付けられた名称と考えられています。元和5年(1619)、松平正綱が陣屋を造ったといわれています。

○「ふあん坂」(城廻391、植木479)
陣屋坂上まで戻り、直進して藤沢方面に向かうと左手に「ふあん坂」入口があります。ふあん坂は、玉縄城から久成寺へと下る急坂で、玉縄城の防禦にとって重要な役割を果たした坂です。久成寺に通ずる坂であることから「久成寺坂」とも呼ばれています。坂の両側にかつては坂道を見下ろす平場があり、道を防御できるようになっていました。ふあん坂という名称は、不安という言葉からきているといわれていますが定かではありません。
【ふあん坂下の庚申塔】
ふあん坂を下ってバス道路に出た角に、2基の庚申塔があります。

○「久成寺」(植木494)
ふあん坂を下り右折すると「久成寺」があります。永正17年(1520)、足利11代将軍義澄に仕えた梅田尾張守秀長が宅地を寄進して創建しました。徳川家康が小田原攻めの際に立ち寄って祈祷を頼み、恩賞として三石を与えたといわれ、鷹狩りの折には「葵の紋」入りの弁当箱を授けられたといいます。寺には、「鎌倉郡玉縄郷ノ内三石のこと」と書かれた徳川五代将軍綱吉の朱印状が残されています。
【長尾定景一族の墓】
境内には、三代将軍源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる、長尾定景一族の墓があります。戸塚区長尾台の陣場跡から移されたものだといわれ、なお、定景は長尾景虎(上杉謙信)の祖先にあたります。

○「円光寺」(植木549)
久成寺から南に向かうと「円光寺」(正式には圓光寺)があります。永禄年間(1558〜70年)に玉縄城主北条氏時が澄範を招いて玉縄城内に創建されました。その後、玉縄城が廃城になると現在の地に移されています。薬師堂には、行基作と伝わる薬師如来像、十二神将像が祀られていますが、60年に一度開帳される秘仏とされています。

○「貞宗寺」(植木656)
円光寺からさらに南に向かうと「貞宗寺」があります。江戸幕府二代将軍徳川秀忠の祖母・貞宗院の隠居地に建っています。大奥で御年寄役を勤めた貞宗院は、晩年この地に屋敷を構え、貞宗院死後、その遺言により貞宗寺が建てられました。創建は慶長16年(1611)と伝えられています。開山は、貞宗院が生前帰依していた大長寺の暁誉源栄。大棟には徳川家の紋である「三葉葵」が入っており、徳川歴代将軍の位牌も安置されています。貞宗寺の寺小屋は、現在の玉縄小学校の前身となりました(明治6年の学制によって「玉縄学校」が置かれていました。のちに龍宝寺に移転)。
【貞宗寺の庚申塔】
庚申塔は境内に2基あります。1基は境内を入ってすぐ左手の少し高くなったところにあります。もう1基は少し進んで左手、貞宗尼の御霊屋への道の手前にあります。

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