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2015年12月19日06:46

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鎌倉市さんぽ「葛原岡・大仏ハイキング(鎌倉大仏〜北鎌倉浄智寺)」

鎌倉市さんぽ「葛原岡・大仏ハイキング(鎌倉大仏〜北鎌倉浄智寺)」

◎『葛原岡・大仏ハイキングコース』
長谷から北鎌倉までの葛原岡・大仏ハイキングコースは、高徳院(鎌倉大仏)から源氏山・葛原ヶ岡を抜けて浄智寺までのコースです。人気の観光名所や見所が含まれとても楽しいコースです。大仏坂登山口と浄智寺側登山口の石段が急ですが、全般的にはアップダウンは多くなく歩きやすいコースです。

○「高徳院(鎌倉大仏)」(長谷4-2)
鎌倉大仏は、高徳院の本尊で青銅製の「阿弥陀如来坐像」です。伝えられている話では、鎌倉大仏は源頼朝の侍女だった稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造立しました。大仏を造ろうと思い立ったのは源頼朝だったのだといいます。しかし、頼朝はそれを果たすことなくこの世を去ってしまい、頼朝の志を受け継いだのが侍女の稲多野局(いなだのつぼね)でした。北条政子が助力したともいわれています。建立当時には金箔が施されていました。最初の大仏は木造で寛元元年(1243)に完成しましたが、台風により崩壊したため、建長4年(1252)新たに青銅製の大仏の鋳造が始められ、大仏殿に安置されました(完成した時期は不明)。大仏殿は高さ40mにもなる巨大な建物だったといいますが、明応4年(1495)の「明応の大地震」による津波で流されました(明応7年=1498ともいわれます)。以後、鎌倉大仏は露坐(ろざ)となりました。大仏建立の理由は不明ですが、死者の怨霊を鎮めるためとする説が有力です。高さ13m(台座共)、総重量122トン。
【大仏切通にあった地蔵尊】
高徳院(鎌倉大仏)入口付近にある庚申塚の地蔵尊は、慶安4年(1651)のもので、もとは鎌倉七口の一つ大仏切通の峠に置かれていたものだといわれています。

○「大仏切通」
鎌倉大仏側のハイキングコース入口は、鎌倉七口の一つ大仏切通になります。大仏切通は、鎌倉から藤沢方面に通ずる切通で当時の面影をよく残しています。『太平記』によると、元弘3年(1333)鎌倉を攻める新田義貞は、軍勢を巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺坂(切通)の三手に分けて攻めました。その際、義貞は洲崎(鎌倉市山崎)を経る中央軍の指揮をとります。洲崎(山崎)の戦いは、大仏切通を目前にしての激戦だったと伝えられています。大仏切通がいつ頃開かれたのかは定かではありませんが、朝夷奈切通や巨福呂坂が開かれた仁治元年(1240)から建長2年(1250)頃ではないかと考えられています。ハイキングコース案内板の通りに、トンネル手前右側の階段を上って行きます。ちなみに、大仏切通はハイキングコースから外れ少し上ったところにあります。

○「浅間神社」(長谷5-11)
大仏ハイキングコースは、源氏山方面にむけて起伏のない山路を進みます。尾根道は、木の根がしっかり張っているので歩くのに注意が必要です。ハイキングコースの途中(小さい標識あり)、右手の急な小道を下って行くと小さな社殿「浅間神社」があります。浅間山公園の中にあり、まるで森の中にひっそり佇む神秘の神社です。また、鎌倉には紅葉が美しいところが沢山ありますが、浅間神社周辺はあまり人に知られていないので、紅葉の時期には是非お勧めのところです。

○「佐助稲荷神社」(佐助2-22)
ハイキングコースに戻ってさらに進むと、右手に佐助・大仏への分岐があり、虎ロープを頼りに下って行くと「佐助稲荷神社」があります。参道には、沢山の朱塗りの鳥居が並んでいます。ここは源頼朝がまだ伊豆・蛭ヶ小島に配流中の身であったころ、「かくれ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、頼朝に挙兵を勧めたといいます。のちに、鎌倉に武家政権を築き上げた頼朝は、「かくれ里」と呼ばれるこの地に祠を見つけ、御家人畠山重忠に命じて社を建立させました。そのため「出世稲荷」とも呼ばれています。建立時期の詳細は不明ですが、建久年間(1190〜99年)と考えられています。「佐助」という名は、佐殿(すけどの)と呼ばれていた頼朝を助けたという意味があるといいます。境内に金子一峰の句碑があります。2月の「初午の日」には、春の農作業開始の前に、豊作が祈願され、神楽が奉納される「初午祭」が行われます。

○「銭洗弁財天宇賀福神社」(佐助2-25)
佐助稲荷神社の参道を下り、左折して行くと「銭洗弁財天宇賀福神社」があります。戦乱が鎮まり、民の加護を祈っていた源頼朝は、巳の年の文治元年(1185)巳の月の巳の日に「宇賀福神」の夢を見ました。夢の中に現れた宇賀福神は、「西北の仙境に湧きだしている霊水で神仏を祀れば、平穏に治まる」と告げました。のちに頼朝は、その泉を発見し宇賀福神を祀りました。それが銭洗弁財天宇賀福神社のはじまりだと伝えられています。境内に金子一峰の句碑があります。
【銭洗水(鎌倉五名水)】
奥宮(洞窟内)の湧き水は、「銭洗水」と呼ばれ鎌倉五名水の一つ。いつのころからか、この霊水で銭を洗うと数倍になるという信仰が生まれ、巳の日は賑わっています。銭洗弁財天として多くの観光客の人気を集める鎌倉でも有名なスポットで、小さなザルにお金を入れて洗う参拝客が絶えません。
源頼朝の意志を受け継いで、隠れ里の福神を信仰した五代執権・北条時頼は、正嘉元年(1257、巳の年)の仲秋に参拝しました。時頼は、「辛巳」(かのとみ)、「なる」、「かねの日」が、全ての人々に福徳が授けられる日だとして、この日に参詣することをすすめました。そして、「弁財天を信仰する者が、持っている金銭をこの水で洗い清めて、同時に心身を清めて行いを慎めば、不浄の塵垢が消えて、清浄の福銭になる」といい、率先して持っている金銭を洗って一家繁栄、子孫長久を祈ったといいます。
また、貞享2年(1685)に徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』には、「隠里の巌窟の中にあり。福神銭を洗と云う。鎌倉五水の一也」と紹介され、天保12年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』には、「扇ガ谷村の西方佐助谷にある大岩窟を云ふ。往古夜中に人語の響あり。聞くに悉く吉事のみを語りしと云ふ。又窟中に銭洗井と云ふあり、福神此の水にて銭を洗ふと云伝ふ。鎌倉五水の一なり」と紹介されています。

○「源氏山公園」(扇ガ谷4-7)
銭洗弁財の入口のトンネルを出て、左に上っていくと「源氏山」です。源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083〜87年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから、源氏山とか旗立山といわれるようになりました。鎌倉時代、葛原岡一帯は刑場だったといわれており、後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基もこの場所で処刑され、その墓といわれる宝篋印塔(国指定)や俊基の霊を祀る葛原岡神社などが近くにあります。
【源頼朝の銅像】
公園内には源頼朝像や大小の広場などがあり、また、桜の名所にもなっています。この銅像は治承4年(1180)10月、源頼朝公が鎌倉入りして以来800年目に当る年を記念し、よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証として、有志の方々から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです。
【太田道灌の首塚】(扇ガ谷1-16)
源氏山から壽福寺の墓地へ下っていく道の途中(英勝寺裏山)に、戦国武将太田道灌の首塚といわれる供養塔があります。太田道灌は、扇谷上杉家の家老を勤め、数々の戦に功績を残し、扇谷上杉氏の地位を高めましたが、その能力を恐れた上杉定正によって伊勢原市で暗殺されました。道灌は江戸城や河越城を築いたことでも知られています。
【化粧坂(化粧坂切通)】
仮粧坂は鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉の重要な防禦拠点でした。名の由来は、平家の首をこの坂で化粧したからとも、娼家があって化粧した女がいたからともいわれます。元弘3年(1333)5月18日、新田義貞の鎌倉攻めの際には新田軍の主力が投入され、また、上杉禅秀の乱のときにも戦陣となりました。その一方で、曾我兄弟の弟五郎時致と梶原景季の遊女をめぐる恋物語の舞台ともなっています。鎌倉から仮粧坂を越えれば、藤沢、戸塚を経て武蔵へ通じ、逆に鎌倉へ入ると武蔵大路、窟小路を経て鎌倉の中心部へ通じます。建久4年(1193)、源頼朝が催した入間野・那須野の巻狩は、仮粧坂を起点とする「上の道」が使われたと考えられています。
【武蔵大路】
「武蔵大路」とは、鎌倉時代の鎌倉から見て武蔵の国へ向かう路の名称です。しかし、武蔵大路という呼び名が示す道の正確な位置と範囲は定かではありません。鎌倉時代の鎌倉の交通の起点は、横大路(鶴岡八幡宮の三ノ鳥居の前の道)あたりです。そこから武蔵の国の国府(現在の府中付近)へ向かう道としては、化粧坂を越え深沢を通る「鎌倉道上の道」が該当します。武蔵大路とは、その鎌倉部分をさして呼んだと考えられます。化粧坂とその前後を含んだ部分が推定できそうです。

○「葛原岡神社」(梶原5-9)
葛原岡神社は、由比ヶ浜の鎮守。祭神は後醍醐天皇に仕えた朝臣日野俊基。明治20年、明治天皇によって忠臣顕彰のために創建されました。俊基は、元弘2年(1332)倒幕計画に参加した罪で、葛原ヶ岡で斬首されました。葛原岡神社がある場所が俊基の最期の地といわれ、「秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん」と詠んで死に果てたといいます。境内には、俊基の墓とされる宝篋印塔が建てられています。「葛原ヶ岡」という地名は、梶原景成(梶原景時の祖)がその祖「葛原親王」を氏神として丘上に祀ったことで付けられた名といわれています。鎌倉時代の葛原ヶ岡は、刑場でした。
【日野俊基の墓】(葛原岡神社近く)
倒幕の勇士・日野俊基の墓が、源氏山の葛原岡神社寄りにあります。日野俊基は正中元年(1324)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送されました(正中の変)。この時俊基はゆるされましたが、資朝は翌年佐渡に流されました。後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われませんでした。告文とは天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったといいます。元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てますが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日に葛原ヶ岡で処刑されました(元弘の変)。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流された。 
【藤原仲能の墓】(葛原岡神社前)
藤原仲能の墓碑が、葛原岡神社の鳥居の傍らに建てられています。藤原仲能は、鎌倉幕府の評定衆を勤めた人物で、建長5年(1253)六代将軍宗尊親王の命によって七堂伽藍を有する寺院を建立し、海蔵寺の中興に尽くしました。死後、道智禅師といわれたといいます。この場所は、「道智の塚」または「阿古耶尼(あこやに)の塚」と伝えられていたようですが、海蔵寺の言い伝えでは「仲能の塚」となっているようです。海蔵寺には、仲能こと道智禅師の位牌があります。
【瓜ヶ谷やぐら群】
葛原岡神社を過ぎて浄智寺へと向かう途中、ハイキングコースがL字に右折するところを北側(梶原方面)にしばらく下りると、「瓜ヶ谷やぐら群」があります。踏み跡程度の道なので、気づかずに通り過ぎてしまいそうです。5穴からなる鎌倉時代のやぐら群で、地蔵菩薩像が安置されているものは特に「地蔵やぐら」と呼ばれ、鳥居や五輪塔などの壁面彫刻が多く残されているやぐらです。「瓜ヶ谷」という地名は、比企能員の義母・比企禅尼が「瓜園を作ったところであるから」という伝承もあります。
【天柱峰】
ハイキングコースの葛原岡神社〜浄智寺間の中程に、「天柱峰」(標高97m)があります。浄智寺背後の天柱峰は、中国元の僧で浄智寺の住職も勤め、この丘を愛した竺仙梵僊が名付けたといいます。天柱とは「世を支える道義」という意味。竺仙梵僊はここからの景色を愛し、麓を終焉の地と定めて塔所「楞伽院」(りょうがいん)を構えて、詩文集『天柱集』を著しました。天柱峰山頂の「天柱峰碑」は昭和16年の建立。「天柱峰碑」背後の塔は、竺仙梵僊の供養塔といわれています。

○「浄智寺」(山ノ内1402)
浄智寺は鎌倉五山第四位の寺。弘安4年(1281)以降、五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため夫人と子師時が創建しました。開山に招かれたのは南洲宏海でしたが、任が重いとして、師の大休正念を迎えて入仏供養を行い、既に世を去っていた師の兀菴普寧を開山としたことから、三人の名が連ねられています。兀菴(ごったん)はよく揉め事を起こし、「ゴタゴタ」の語源となった和尚です。二階に花頭窓のある鐘楼門(山門)は珍しく、曇華殿(仏殿)には本尊の三世仏如来坐像が安置されています。
【布袋尊(鎌倉江ノ島七福神)】
「鎌倉江ノ島七福神」の一つ。お寺の案内板には、「布袋尊のお腹をなでて上げて下さい。元気がもらえます」とあり、時には順番待ちになったりとかで、布袋尊の腹が真っ黒になっています。
【狸塚】
浄智寺裏山には、タヌキやハクビシンが生息していて、時々、車にはねられたりして死んでいます。そんな動物たちを葬ったのが狸塚です。
【甘露の井(鎌倉十井)】
鎌倉十井の一つ。浄智寺境内への入口に池があり、小さな石橋が架けられています。石橋の左にある池の奥に、竹の筧より水が流れており、その上に竹で組んだ蓋のある井戸があります。これが「甘露の井」(かんろのい)です。『新編鎌倉志』によりますと、「甘露の井は開山塔(蔵雲庵と名く。仏源の塔には非ず。 真応禅師の塔なり。)の後に有る清泉を云うなり。門外左の道端に、清水湧き出でる。或いは是をも甘露の井と云うなり。鎌倉十井の一なり。」とあります。この記述によると、「甘露の井」は境内の開山塔の後ろの井戸と、門の外の左の池の脇にある井戸の二か所であると説明しています。

○「雪堂美術館」(山ノ内1391)
東慶寺の手前(東方)に「雪堂美術館」があります。新様式の門「雪堂門」を潜り、細い路地を錆石に導かれて進み玄関を入ると、表の喧騒とは全く別世界の静かな癒しの空感が楽しめます。入館料(個人) 500円(コーヒーまたは抹茶つき)。書家小野田雪堂(故人)による「金子みすずの世界」と「山頭火の世界」が常時展示されています。3ヶ月ごとに展示換えがあり、「金子みすずの透明感あふれる詩」と「山頭火の清澄な句」に絵が添えられて、独自の世界が広がっています。また季節に応じた小野田雪堂の書画の作品も展示されています。

○「東慶寺(駆け込み寺)」(山ノ内1367)
かつての東慶寺は、「駆け込み寺」とも「縁切り寺」とも呼ばれ、女性を救済するための尼寺でした(鎌倉尼五山第二位)。弘安8年(1285)の創建で、開山は八代執権北条時宗の妻で覚山尼。覚山尼の法号は無学祖元より授けられたもの。開基は、時宗と覚山尼の子・北条貞時(九代執権)。江戸時代までは、東慶寺で三年間奉公をすれば離縁できるという「縁切寺法」があったといいます(五世用堂尼以降は24ヶ月に短縮)。後醍醐天皇の皇女用堂尼の入山で繁栄し、豊臣秀頼の娘天秀尼も住職を勤めている(徳川秀忠の娘千姫の養女)。墓地には、覚山尼、用堂尼、天秀尼、釈宗演など歴代住職をはじめ、西田幾多郎、安倍能成、岩波茂雄、鈴木大拙など各界の有名人が眠っています。

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