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2015年12月17日06:35

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鎌倉市さんぽ「扇ガ谷・寿福寺から浄光明寺」

鎌倉市さんぽ「扇ガ谷・寿福寺から浄光明寺」

○「問註所跡の碑」(御成町9)
鎌倉駅西口を出ると南西に向かうと、御成小学校の東の信号角に「問註所跡の碑」があります。元暦元年(1184)平氏追討を目前にした源頼朝は鎌倉幕府の基盤整備を進めていました。政治を司る政所に続いて、裁判を担当する問注所を設置しました。当初は頼朝の屋敷内にありましたが、第2代将軍源頼家の時代、訴訟が増えるに従ってこの地に移りました。

○「蓮華寺跡」(佐助1-13)
鎌倉市役所前の道を西に向かうと、法務局の先に「蓮華寺跡」の碑があります。蓮華寺は仁治元年(1240)、四代執権・北条経時が開山に然阿良忠を迎えて創建した寺院です。寛元元年(1243)には、材木座に移され光明寺と改められました。昔この辺りは、「光明寺畑」と呼ばれるところだったといいます。ただ、現在石碑の建てられている場所は、本当の跡地ではないとも伝えられています。
【松谷寺及び佐助文庫跡】(佐助1-18)
さらに西に向かうと、新佐助トンネルの手前200mほどのところに、道路に面して松谷寺及佐助文庫跡の碑がたっています。このあたりは松谷寺および松谷文庫(佐介文庫とも)があった場所といわれています。

○「鍛冶谷のやぐら」(佐助2-3)
少し戻り北に向かうと、佐助トンネル西側は鍛冶谷と呼ばれ、民家の裏山の崖には大きな「やぐら」が残っています。道路から見ると、やぐらの中には屋根を掛られ自転車置場になっています。

○「正宗の井戸」(扇ガ谷1-2付近)
東に向かい佐助トンネルを潜り100m東に向かうと、「正宗の井戸」があります。金属のふたがしてあるだけで何の表示もなく、気づかず通り過ぎてしまいそうです。鎌倉時代の刀匠・五郎入道正宗が、刀を打つ前にこの井戸の水で沐浴したそうですが、今は個人のお宅の道路ぎわにフタをしてあります。鎌倉の山の斜面と平地の境あたりに位置し、良い水が出そうです。

○「巽神社」(扇ガ谷1-9)
さらに東に向かい丁字路を左折、JR横須賀線に沿って北に向かうと、坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの「巽神社」があります。延暦20年(801)、蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂(征夷大将軍)が、葛原ヶ岡に勧請したのが始まりとされます。坂上田村麻呂は、この遠征の翌年、蝦夷の指導者アテルイとモレを降伏させています。永承4年(1049)に源頼義が改修し、のちに現在の地に遷座され、壽福寺の鎮守として崇敬されました。寿福寺の巽の方角にあることから、この名が付けられたのだといいます。

○「八坂大神(相馬天王)」(扇ガ谷1-13)
さらに北に向かうと、寿福寺の手前に「八坂大神」があります。扇ヶ谷の鎮守。相馬次郎師常が、自邸の守り神として勧請したのが始まりとされます。師常は、源頼朝の鎌倉入りを進言した千葉常胤の子で、奥州征伐で武勲をあげました。八坂大神は「相馬天王」とも呼ばれ、もとは浄光明寺の裏山にあり、壽福寺の本堂脇を経て現在の地に遷されました。
【鉄の神輿】
相馬天王(八坂大神)の神輿は鉄でできていて、祭りのときには血をみないではすまない神輿でした。そこで、この神輿を師常の墓近くに埋め、新たに木の神輿を造ったといいます。本殿左の裏手に、埋めたといわれる石碑があります。

○「英勝寺」(扇ガ谷1-16)
この先の寿福寺は後で寄るとして、北側の「英勝寺」に向かいます。英勝寺は鎌倉にある唯一の尼寺で、寛永13年(1636)に建立されました。開基は英勝院尼で、扇谷上杉氏に仕えた太田道灌から数えて四代の孫・康資の娘です。徳川家康に仕え、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となりました。家康に仕えていた頃の英勝院は、戦には必ず勝利をもたらしたので「お勝の方」と呼ばれました。家康の死後、徳川三代将軍家光より道灌の土地を譲り受け、英勝寺を建立し、頼房の息女・玉峯清因を開山に迎えました。徳川光圀もこの寺を訪問しており、英勝院尼没後は水戸家の姫君が代々住職を勤めたため、「水戸御殿」とも呼ばれましたが、六代の清吟尼を最後に水戸家からの住持は絶え、徳川家の支援によって維持されました。
【伝阿仏尼の墓】
英勝寺墓地の崖下に、『十六夜日記』著者の阿仏尼の墓と伝わる供養塔(層塔)があります。台座には「阿佛」と刻まれていますが、阿仏尼の墓として特定することは難しいようです。ただ、浄光明寺の境内に阿仏尼の供養塔があったとう伝承も残されているようで、『新編鎌倉志』にも「阿仏ガ卵塔有シ」と記されていることから、昔から扇ヶ谷に阿仏尼の墓と呼ばれるものがあったものと考えられます。

○「寿福寺」(扇ガ谷1-17)
「寿福寺」(正式には壽福寺)に戻ります。寿福寺は正治2年(1200)、源頼朝の妻・北条政子が建立しました。鎌倉五山第三位。寿福寺のある亀ヶ谷の地には、源頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、頼朝は当初この地に御所を置こうと考えましたが、土地が狭く亡き父の御堂もあったことから、大倉の地を選んだのだといいます。亀ヶ谷は、奥州征伐に向かう八幡太郎義家(源義家)が勝利を祈願し、白旗を掲げたという源氏山が背後にあり、源家父祖伝来の地でもあります。開山の栄西は、日本に初めて臨済禅を伝えた人物で、宋から茶の種を持ち帰ったことでも知られます。
【いぼなし鐘】
かつての寿福寺の梵鐘は、中国から伝来した「いぼなし鐘」と呼ばれたものだったという。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めが起こると、後北条氏によって取り上げられ、鉄砲の弾に使われてしまったと伝えられています。いぼなし鐘は、栄西が宋より持ち帰ったものとも伝えられています。
【寿福寺のビャクシン】
寿福寺の仏殿前に植えられている「ビャクシン」4株は、鎌倉市の天然記念物に指定されています。
【勝ノ橋(鎌倉十橋)】
「勝ノ橋」は、寿福寺の門前に架けられていた橋で、鎌倉十橋の一つに数えられています。英勝寺を建てたお勝の方(英勝院尼)が架けたので、勝ノ橋と呼ばれていたといいます。
【寿福寺の庚申塔】
寿福寺の門前に5基の庚申塔があります。
【源実朝と北条政子の墓】
寿福寺の裏山墓地北側のやぐらには、源実朝と北条政子の墓(五輪塔)があります。寿福寺墓地には、他に高浜虚子、陸奥宗光、大佛次郎の墓もあります。

○「太田道灌の首塚」(扇ガ谷1-25付近)
寿福寺の裏山墓地南側から源氏山へのハイキングコースに入ると、途中の英勝寺裏山付近に「太田道灌の首塚」があります。供養塔は文政9年(1826)10月、英勝寺第6代住持・清吟尼により建てられました。

○「源氏山」(扇ガ谷4-7)
「源氏山」は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083〜87年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。公園区域内には、源頼朝像や大小の広場などがあり桜の名所にもなっています。鎌倉時代、公園北部の葛原岡一帯は刑場だったといわれており、後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基もこの場所で処刑され、その墓といわれる宝篋印塔や俊基の霊を祀る葛原岡神社、銭洗弁天、佐助稲荷が近くにあります。

○「仮粧坂切通」(扇ガ谷4丁目)
源氏山公園の中央部、源頼朝像の先から東に「仮粧坂」(けわいざか)があります。仮粧坂切通は鎌倉七切通の一つ。めずらしいこの名前の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからという説や、このあたりに遊郭が多くあったからとか諸説あります。この切通しは、藤沢から武蔵方面に通じる重要な道で鎌倉防御の要であったため、新田義貞が鎌倉攻めの時ここに軍の主力を投入したため激戦地となりました。『吾妻鏡』には、「気和飛坂」(けわひざか)という名で紹介されています。

○「景清の土牢跡」(扇ガ谷4-13)
化粧坂を下っていくと切通の先、右側上に「景清の土牢跡」があります。景清は、藤原秀郷の子孫で本名は藤原景清、伊藤景清ともいいますが、平家に仕える武士であり都落ちに従ったため、俗に平景清ともいわれています。また、上総介忠清の七男であることから上総七郎とも呼ばれ、勇猛な人物として悪七兵衛とも呼ばれています。この土牢跡はその景清が果てたと伝わる洞窟ですが、景清土牢、景清窟などと呼ばれています。土牢跡には、景清の墓石「水鑑景清大居士」と「向陽庵大悲堂碑記」の石碑があります。向陽庵は景清の娘・人丸姫が、景清の守り本尊であった十一面観音を祀ったお堂とされます。

○「海蔵寺手前の庚申塔」(扇ガ谷4-15)
化粧坂を下りきった丁字路を右折して少し行くと、海蔵寺の手前100m、左手「武田流弓馬道教場」入口の手前の崖に掘られたやぐら(あなぐら)に、1基の庚申塔があります。

○「海蔵寺」(扇ガ谷4-18)
海蔵寺が建てられる前のこの地には、真言宗の寺が建てられていました。その旧蹟に、建長5年(1253)六代将軍・宗尊親王の命によって、藤原仲能(道智禅師)が七堂伽藍を備えた寺院を建立しましたが、元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めによる兵火をうけて焼失してしまいました。その後、応永元年(1394)鎌倉公方の足利氏満の命を受けた上杉氏定が、建立したのが海蔵寺です。開山には、心昭空外が迎えられました。本尊の薬師如来は、胴体部(胎内)にもう一つの薬師の顔を納めた像で、啼薬師、児護薬師と呼ばれます。海蔵寺は、観光コースから外れ奥まった所にあるせいか、いつ訪れても静かな佇まいで迎えてくれます。ロケの場所としても有名です。
【底脱ノ井(鎌倉十井)】
海蔵寺門前の「底脱ノ井」は、鎌倉十井の一つに数えられています。安達泰盛の娘(千代能)が水を汲んだところ桶の底が抜け、「千代能がいだく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ」と詠んだことからこの名が付いたといいます。桶の底が抜けたことで頭から水をかぶり、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという解脱の歌のようです。千代能は金沢顕時に嫁ぎ、顕時の死後は仏光国師(無学祖元)に参禅し無着如大と号しました。底脱ノ井には、もう一つ歌が伝わっていて、「賤の女がいただく桶の底ぬけてひた身にかかる有明の月」というもの。これは、上杉家の尼が詠んだものと伝えられています。
【十六ノ井】
海蔵寺仏殿の裏のトンネルをくぐると岩窟があって、その中に丸く掘られた穴が縦横4つずつ並んでいます。「十六ノ井」と呼ばれていますが、何のための穴なのかは判っていません。『扇谷山海蔵略寺縁起』には、開山が観世音菩薩のお告げによって井戸を掘り出し、その時に観音菩薩像も出てきたと伝えています。

○「岩船地蔵堂」(扇ガ谷3-3)
戻って東に向かうと、横須賀線ガードの先、亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘・大姫の守本尊を祀る「岩船地蔵堂」があります。守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつものでこの名の由来となっています。なお地蔵堂は、大姫の妹乙姫(三幡)の墳墓堂ではないかという説もあります。木造地蔵尊の胎内銘札にも息女と書いてあるのみで、大姫とは書かれていないようです。元禄3年(1691)に堂が建て替えられたときに、木造地蔵尊が安置されました。その胎内の銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれているといいます。外から拝観できるのは、木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできません。

○「薬王寺」(扇ガ谷3-5)
岩船地蔵堂から亀ヶ谷坂に向かうと、左手に「薬王寺」があります。薬王寺は、開山は日像、中興は日達と伝えられています。永仁元年(1293)、日像と住職の宗教論議の末、日蓮宗に改宗されたといいます。江戸時代には、徳川家との縁が深く、寺紋にも「三葉葵」が使われたため、庶民の埋葬は許可されない格式の高い寺でした。本堂に安置されている日蓮像は、天保5年(1834)将軍家斉の命によって造られた裸像で、本物の法衣袈裟をまとっています。
【駿河大納言忠長の供養塔】
本堂手前右手に、江戸幕府三代将軍徳川家光の弟、駿河大納言忠長の供養塔があります。供養塔を建てたのは、忠長の妻松孝院(織田信長の孫)です。
【松壽院と梅嶺院の墓】
裏山墓地中央部にある巨大宝篋印塔は、蒲生氏郷の孫忠知の妻(松壽院)と娘(梅嶺院)の墓です。松壽院は内藤政長の娘です。
【亀ヶ谷切通し】
鎌倉七切通しの一つ。「亀も登れないほどの急坂」ということで亀ヶ谷坂という名がついたこの切通し、現在は舗装されていることもあって、それほどしんどい坂ではありません。

○「浄光明寺」(扇ガ谷2-12)
戻って南に向かうと、「浄光明寺」があります。浄光明寺は、源頼朝が文覚に建てさせた堂がそのはじまりであるとも、頼朝の子といわれる島津忠久が建てた寺がそのはじまりともいわれています。建長3年(1251)、北条長時(後の六代執権)が開山に真阿を招いて再興し浄光明寺としました。開山の真阿は没後に「真聖国師」号を賜っています。鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇の皇子成良親王の祈願所となる一方、浄土・華厳・真言・律の四つの勧学院が建てられ、四宗兼学の寺院となります。盛時には10の支院があったといいます。建武2年(1335)足利尊氏は後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り中先代の乱を平定し、一時、浄光明寺に蟄居しますが、弟直義に説かれ、ここで後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めたといわれます。
【冷泉為相の墓】
浄光明寺の裏山に「冷泉為相の墓」があります。お参りには、山門をくぐって階段を上り、阿弥陀堂・阿弥陀三尊像参拝のため受付で200円を支払い、奥の階段を上ります。網引地蔵からさらに高台への階段を上ると、安山岩製の宝篋印塔があります。これが冷泉為相の墓だとされています。為相は、『十六夜日記』で知られる阿仏尼の息子で、『新古今和歌集』の撰者として知られる藤原定家の孫にあたります。為相と異母兄の相続争いで、為相の正当性を訴えるために鎌倉を訪れていた母阿仏尼のあとを慕って鎌倉に下ったとされます。宝篋印塔の様式は南北朝時代のものですが、徳川光圀が建てたともいわれています。周辺にもやぐらがたくさんあるようですが、残念ながら通行止めで金網フェンスが建てられています。
【藤谷黄門遺跡の碑】
山門前に「藤谷黄門遺跡」の石碑があります。鎌倉へ下った冷泉為相は、藤ヶ谷に住まいし、多くの歌を詠み、「藤谷和歌集」を編んでいます。そのため、「藤谷殿」または「藤谷黄門」と呼ばれていたといいます。黄門とは中納言の唐名。為相は正二位権中納言。嘉暦3年(1328)、鎌倉で没したといいます。

○「泉ノ井(鎌倉十井)」
浄光明寺からさらに奥に入ると「泉ノ井」があります。鎌倉十井の一つ。扇ヶ谷の小字泉ヶ谷の名は、この井戸に由来するともいわれています。『鎌倉日記』には、「泉井谷の辺に潔き水涌出る也」と記されています。

○「妙伝寺(多宝寺跡)」(扇ガ谷2-21)
さらに東へ、左折して丘に向かうと「妙伝寺」があります(道標なし)。東京都文京区白山にあった寺で、承応元年(1652)紀州徳川頼房の祈願所として創建されたと伝えられている。道路拡張工事の影響で、昭和49年この地へ移転してきました。旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し日蓮宗の寺院によくみられます。平将門が信仰しましたが、新皇宣言によって嫌気がさし将門を離れたので将門は滅んだといわれています。
【多宝寺跡】
妙伝寺が建てられている多宝寺ヶ谷と呼ばれる谷戸は、忍性によって開かれた多宝寺という真言律宗の寺がありました。極楽寺、称名寺(横浜市金沢区)と並ぶ鎌倉の真言律宗の主要な寺であったと考えられています。多宝寺は弘長2年(1262)頃に創建されたらしく、いつまで存続していたかについては不明。北条業時(重時の子)の招きで、忍性が開山となったと伝えられています。
【多宝寺址やぐら群】
妙伝寺の裏山には、長老覚賢の大五輪塔が建ち、覚賢塔の前面に分布する「多宝寺址やぐら群」からは、応永年間(1368〜74年)の板碑が発見されていることから、室町時代の初めころまでは存続していたものと考えられます。鎌倉後期から室町初期にかけて、多宝寺関係の僧侶が葬られたと考えられています。

○「護国寺」(扇ガ谷2-3)
戻って南に向かうと「護国寺」があります。護国寺は、日蓮の竜の口法難と発迹顕本の意義を末永くとどめるために建立されました。このため、竜の口法難が起きた9月12日には「御難会」という法要を行っています。
【扇谷上杉管領屋敷跡の碑】(扇ガ谷2-4)
護国寺駐車場の道路沿いに、「扇谷上杉管領屋敷跡」の碑があります。扇ヶ谷という地名は鎌倉時代後期頃からあったものですが、海蔵寺から英勝寺付近の狭い範囲で、この地域の総称は亀ヶ谷でした。室町時代に上杉定正がこの地に住み、「扇谷殿」と呼ばれるようになったことから、亀ヶ谷という名がすたれ扇ヶ谷という名が一般的になったのだといいます。上杉氏は建長4年(1252)、第六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際に、公家であった上杉重房が親王に従って下向してきたのがそのはじまりです。重房は宗尊親王が鎌倉を追放された後も鎌倉に留まり、武士として鎌倉幕府に仕えています。

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