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2015年12月15日07:05

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鎌倉市さんぽ「十二所・朝比奈切通から明王院」

鎌倉市さんぽ「十二所・朝比奈切通から明王院」

○「熊野神社」(横浜市金沢区朝比奈町)
京急金沢八景駅から国道16号に出て、大船または鎌倉駅行きのバスに乗り、「朝比奈」で下車します。先の信号を左折すると、「朝比奈切通」への入口になります。二股を右に上がっていくと、まもなく朝比奈切通の手前左手に「熊野神社」への分岐があります。熊野神社と記された大きな石碑と、案内板の間の山道を右回りにしばらく進んでいきます。すると、山の中としては立派な神殿が建っています。熊野神社は、源頼朝が鎌倉の鬼門に当たるこの地に、朝比奈切通しの整備に際して守護神として熊野三社大明神を勧請したといわれています。『鎌倉市史 考古編』によれば、この辺りでも多数の五輪塔や宝篋印塔が掘り出されているとあり、ここには寺院もしくは誰か御家人の邸が他にもあったと思われます。考えられる該当者としては、朝比奈三郎義秀、または鎌倉側出入口付近に居たとされる上総広常、もしくは六浦の港を頻繁に利用したはずの千葉氏・和田氏あたりでしょうか。また、この辺りでも多数の五輪塔や宝篋印塔が掘り出されているとあります。

○「朝比奈切通」(十二所、横浜市金沢区朝比奈町)
もとに戻り、少し上がると「朝比奈切通」になります。ここは、鎌倉の外港を擁する六浦と鎌倉を往来する六浦道(鎌倉道)の峠坂となります。『吾妻鏡』には、仁治2年(1241)に「六浦の道を造り始める」とあります。この頃に朝比奈切通が開通したのかと思ってしまいますが、これは拡張工事のようなものと解釈されます。実際にも、健保元年(1213)の和田合戦で落命した朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝承があるので、それ以前から原型となる道があったと思われます。朝比奈切通は、一見して旧態を残す様相に見えますが、道が一直線でしかも底面がやたらと削平されています。道の途中には江戸期の石像・石塔がみられることからも、近世においてだいぶ改修されたようです。
【朝比奈切通の浮き彫り石仏】
鎌倉側へと進んだ序盤に平場が現れ、「浮き彫り石仏」があります。奥には、やぐらか石切り跡かちょっと判別し難い横穴がみられます。この石仏ですが、鎌倉市の話では「釈迦如来だか阿弥陀如来だか、はっきりしない」といいます。この平場といえば、荼毘跡・寺院跡・曲輪などが考えられますが、なんと、予想を覆すことに茶屋があったそうです。鎌倉側に朝比奈砦と呼称される城郭遺構があったようですが、やはり金沢側にもそうした用途の地形が残されているようです。

○「梶原太刀洗水」
朝比奈切通から下りっていくと、十二所果樹園からの道路に合流します。この道路に出る手前左手に、太刀洗川の小さな滝があります。道路を右折してすぐの右手上部に、雑草が生い茂りはっきりと確認はできませんが、岩肌をくり抜いたようなところがあり「梶原太刀洗水」との案内板があり、下の岩肌にある竹筒から水が流れ落ちています。石仏もあるとのことですが、雑草が邪魔をしていて確認はできません。
寿永2年(1183)、梶原景時が上総介千葉広常を討ってその太刀を洗ったところといわれ、鎌倉五名水の一つとされています。この付近の地名に「太刀洗い」の名が残っています。広常は、源頼朝の挙兵の際に2万騎の兵を率いてに従った武将です。しかし寿永2年(1183)、頼朝の命を受けた梶原景時に暗殺されました。暗殺の理由は不明です。景時が広常の屋敷に赴き、酒のもてなしを受け、二人で双六に興じているときに景時が広常に襲いかかって首をとったといわれていいます。千葉広常の屋敷がこの道の東部にあったので、この伝説ができたようです。
【朝比奈峠入口の庚申塔】
太刀洗川を下り滑川に合流して、左折して下っていくとバス道路に十二所神社前バス停が見え、その手前の右側台地(高さ数m)の縁に4基の石塔があります。3基が庚申塔、右端の1基は馬頭観音です。

○「十二所神社」(十二所285)
バス道路に出ると、道路反対側に渡って入って行くと「十二所(じゅうにそ)神社」があります。この神社は、光触寺の境内にあったという熊野十二所権現の社が前身とされ、江戸時代末に明王院住職の村人への呼びかけによって、現在の地に新社殿が建立されたと伝えられています。明治の神仏分離によって、十二所神社と改名されました。十二所神社の創建以前の寿永元年(1182)、北条政子の出産に際して奉幣使が派遣され、二代将軍源頼家の誕生に際しては神馬が奉納されているといいます。弘安元年(1278)の創建で、かつては熊野十二所権現社と呼ばれ、ここから400mほど南にある光触寺の境内に祀られていたようです。十二所という地名は、熊野十二所権現の社があったことから付いた地名と伝えられています。

○「光触寺」(十二所793)
鎌倉へと下って行くと「光触寺」(こうそくじ)があります。は弘安2年(1279)の創建。一遍の開山という説もあります。起源については伝説があります。鎌倉に町の局という女がいて、仏師に阿弥陀像をつくってもらい、お堂に安置していました。町の局には、万蔵法師という信心深いが従者がいました。 あるとき町の局は万蔵法師に盗みの疑いをかけて、頬に焼き印を押しました。するとその夜、町の局の夢に阿弥陀如来が現れ、「お前のために我が顔に焼き印を受けた」と語り、万蔵法師の頬の焼き印は消えていました。 町の局は仏師に像の修復をたのみましたが直らず、傷あとを隠すのは仏の心にそむくと悟って、仏像を世間に公開し、岩蔵寺というお寺を建てました。このお寺が光触寺になったとのことです。本尊は阿弥陀三尊で、阿弥陀は運慶、観音は安阿弥(快慶)、勢至は湛慶作と伝えられ、鎌倉六阿弥陀の一つに数えられます。本尊中尊の阿弥陀如来像は「頬焼阿弥陀」と呼ばれ、絵巻物の『頬焼阿弥陀縁起』は国の重要文化財になっています。
【塩嘗地蔵】
境内(本堂前右手)に「塩嘗(しおなめ)地蔵」があります。塩嘗地蔵は、もとはバスが通る金沢街道にあり、六浦(横浜市金沢区)の塩売りが鎌倉に商いに行くときには、朝、少しの塩を供えていくのが習いでした。ところが帰りに見ると塩がなくなっているため、お地蔵様が塩を嘗めしまうのだろうといわれ、塩嘗地蔵の名がつきました。実際は貧しい人々が持って行ったのであり、塩売りはそれを承知で塩を置いたのでしょう。今でもお地蔵様の前には、塩が供えられています。
【鎌倉公方足利持氏の逃走経路】
応永23年(1416)に起こった上杉禅秀の乱で、鎌倉公方だった足利持氏は、十二所から小坪、由比ヶ浜を通って佐助に逃走したと伝えられています。佐助には関東管領上杉憲基邸がありました。

○「明石橋の庚申塔」(明石橋西詰)
バス道路を行くと、ハイランドへ分かれる交差点の手前の明石橋を渡ると、右側に十数個の石塔が並んでいます。正徳2年(1712)銘の庚申塔が1基あります。

○「明王院(五大堂)」(十二所32)
さらに道路を進みすぐ右折して北に向かうと、「明王院」があります。嘉禎元年(1235)、四代将軍藤原(九条)頼経による創建されました。十二所という地が幕府の政所からみて鬼門の方角にあったため、鬼門除けとして建立され「不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉」の五大明王が祀られ、それぞれの明王に大きな堂があったことから「五大堂」とも呼ばれます。鎌倉で五大明王を祀るのはここ明王院のみです。不動明王像は、運慶の次男・康運の作とする説があります。毎月28日は「お不動様の日」として護摩法要が行われます。
【大慈寺跡】
明王院の東側にあったという大慈寺は、建暦2年(1212)に三代将軍源実朝が父頼朝への感謝のために創建を開始した寺院です。勝長寿院の「大御堂」に対して「新御堂」とも呼ばれていました。建保2年(1214)7月27日には、栄西が呼ばれ、北条政子も参列し大法要が催されました。栄西は、実朝や政子が帰依した高僧で我が国臨済宗の開祖で、建保2年(1214)2月4日、二日酔いの実朝に茶を勧め『喫茶養生記』を献上しています。建保4年(1216)、実朝は宋の能仁寺から仏舎利(釈迦の歯)を請来し、勝長寿院に安置しました。その後、大慈寺に納められていたといいます。のちの弘安8年(1285)、この仏舎利は北条貞時によって円覚寺に移され、現在は正続院の舎利殿に納められています。
【梶原景時屋敷跡】
源頼朝の信頼を得て、鎌倉幕府では重要な地位にいた梶原景時の屋敷は、明王院手前の路地を東に、左折して番場ヶ谷に入ったところにあったと伝えられています。景時は、石橋山の戦いに敗れた頼朝を助けた話に始まり、上総介広常の暗殺、源義経との対立など多くの伝説を残しました。正治元年(1199)、結城朝光を讒言したのをきっかけに御家人66名から弾劾にあい、鎌倉を追放され相模国一宮に退きます。そして翌年、上洛途中の駿河国で最期を遂げました。番場ヶ谷には、景時の家臣・番場の忠太の屋敷もあったといわれています。
【大江広元屋敷跡】
大江広元は、大江惟光の子で中原広季の養子となりました。大江の姓を名乗ったのは建保4年(1216)、陸奥守となった以降といわれています。「大江」は朝臣であるので氏ではなく姓となり、したがって「おおえのひろもと」と読みます。元暦元年(1184)、源頼朝に招かれて鎌倉に下向し、開設された公文所の別当となります。文治元年(1185)、源頼朝による守護・地頭の設置は広元の献策によるものとされています(文治の勅許)。源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担い、鎌倉幕府の基礎を築き上げました。
【明王院の庚申塔】
明王院参道、山門手前左側に1基の庚申塔があります。

○「伝大江広元墓(胡桃山)」
明王院の裏山(胡桃山)には、大江広元の墓と伝わる五層塔があり、石造層塔で鎌倉期のものと考えられています。明王院の東側から、天園ハイキングコースへと通ずる古道にあるというので、胡桃山へと向かいます。明王院東側すぐの左側民家の横の急な道を上って尾根道行くと、鳥居のある神社がありますが、さらにコースを北に向かうと、左上(胡桃山、浄妙寺団地東部)に五層塔「伝大江広元墓」があります。こんな辺鄙なところにあり、江戸時代、毛利家の家老が墓を探しにきましたが、威張り散らす役人に腹を立てた村人は、墓のありかを教えなかったという話が残されています。大江広元邸は、胡桃山を下りたところ(明王院左側)にあったので、この場所に墓があるとしても不思議ではありません。このまま北に進みハイキングコースに出て、瑞泉寺へと向かいました。
また、西御門の頼朝の墓の裏手にも大江広元の墓と伝わる供養塔がありますが、こちらは江戸時代に長州藩によって建てられたものと考えられています。

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