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2015年12月09日06:48

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逗子市さんぽ「久木・法性寺から名越切通し」

逗子市さんぽ「久木・法性寺から名越切通し」

○「山の根3丁目線路沿いの庚申塔」(山の根3-5)
JR逗子駅から北側の横須賀線線路沿いの道路を東に向かうと、水道局施設の約100m先、道路左側に面した民家の塀の中に石塔が6基あります。庚申塔3基、堅牢地神塔1基、六十六部塔1基、地蔵塔1基です。

○「熊野神社」(山の根2-4)
少し戻ると、山の根地区の住宅地の奥に「熊野神社」があります。明治2年に社殿炎上のため古記録はありませんが、源頼朝の勧請と伝えます。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊。明治2年に廃仏稀釈で廃寺となった松本寺(しょうほんじ)の本堂を、石段下から移築して神社の社殿としました。境内の手水鉢は、天保4年(1833)の銘があり旧松本寺の遺物です。
【タブノキ】
鳥居の後ろに聳える「タブノキ」は2本が根元で癒着しており、「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」に選ばれています。
【横穴古墳】
熊野神社の裏山には、7基の横穴墓からなる横穴古墳群があります。神社境内に消えかかった説明看板があり、神社掲示板にも「熊野神社横穴古墳群」と「山の根横穴古墳群について」の張り紙があります。名称が2つになっており、かつての横穴古墳は横穴墓と呼んでいるようです。横穴古墳群は、左から3基だけが柵越しに見ることができます。左から2基だけが発掘済みで、3基目からは未発掘であり、4番目〜7番目は横穴墓がどこにあるのかも分かりません。横穴古墳群に上る途中から、裏山山頂に上がる緊急避難路が整備されており、毎年、地域住民が避難訓練をしにこの山頂まで上がるのだといいます。

○「山の根谷装飾横穴(小沢宅)」(山の根2-1)
北西に向かうと久木トンネルの手前、山の根2丁目の個人(小沢)宅裏山の山腹に、「山の根谷装飾横穴」があります。宅地造成によって発見されたもので、同形2個の横穴からなっています。左の横穴(1号横穴)は、側壁から天井にかけて塗られた煉瓦色がかなりよく残っています。この横穴は奈良時代後半期の墳墓で、天井や壁を丹色に塗って装飾してあるのは、古代寺院において天井を丹塗りにしたのと同じ考えによるものと思われます。

○「久木神社(稲荷社)」(久木6-2)
久木トンネルを潜ると、聖和学院の北東に「久木神社」(稲荷社)があります。久木の鎮守で、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。ここは昔、久野谷村と柏原村に分かれていて、久野谷村には稲荷社、柏原村には柏原明神社がそれぞれの村の鎮守としてありました。明治15年、両社および字内鎮守5社が合併して久木村総鎮守とし、「稲荷神社」と称し社殿が新築されました。昭和45年7月、神社本庁および県知事の認証を得て社号を「久木神社」と改称しました。

○「妙光寺」(久木6-1)
久木神社(稲荷社)の西に「妙光寺」があります。創建は文明3年(1471)です。鎌倉公方足利持氏の家臣であった冨永三朗左衛門は、将軍足利義教と鎌倉公方持氏の間に10年続いた永享の乱(永享10年=1438に勃発)に嫌気が差して農夫の暮らしをしていると、寛正年間(1460〜1465年)のある年、美濃の生まれの賢信という旅僧が富長の家を訪れ、富長の家を宿として、近在を托鉢して歩きました。賢信が読経三昧に耽っていたある夜、岩窟の外に読経の声が聞こえました。また、富長の夢枕にも日蓮聖人が現れ、戦乱の折、我が像が土中に埋められているから掘り出して祀ってもらいたいと、お告げがあったといいます。富長と賢信は、読経の聞こえたあたりを掘り起こしてみると、日蓮聖人の小さなお像が出てきました。文正元年(1466)、二人はこの像を祀る小さな庵を建て、賢信が庵主となっていましたが、応仁2年(1468)に富長が病死し、後を追うように妻も亡くなり、次男の雅樂助が両親の菩提を弔って文明3年(1471)に一寺を建立し、この日蓮聖人像を本尊として祀りました。山号は父・富長の法名「法久」、寺名は母の法名「妙光」からきています。

○「二葉会館脇の庚申塔」(久木1-2)
南西に向かうとJR横須賀線の手前、久木1丁目の朝日新聞逗子の道路反対側にある二葉会館の左脇に、2基の庚申塔があります。

○「岩殿寺」(久木5-7)
バス道路を鎌倉方面(北方)に向かうと、右手に「岩殿寺」(がんでんじ)の入口案内があります。寺伝によれば養老5〜6年(721〜2)、大和長谷寺の開基徳道上人が、ここで熊野権現の化身である老翁に逢い霊地であることを知り、また数年のちに僧行基が訪れて十一面観音の石像を安置したのが開創といいます。鎌倉時代には、源頼朝、政子、実朝らが参詣したことが『吾妻鏡』に見られ、源氏の崇敬が厚かったことが伺えます。坂東三十三観音2番札所。
【観音堂】
現在の観音堂の建築は、その様式や棟札により、享保13年(1728)の再建によるものと考えられています。桁行3間、梁行5間の寄棟造りで、小規模ながら平面の基本は中世以来の伝統的な密教本堂形式をとり、軸部には禅宗様の本格的な意匠である二手先(ふたてさき)と呼ばれる組物を用い、さらに細部には江戸時代的な和様の意匠がみられます。鎌倉地方の近世寺院建築様式の変遷を知るうえで、重要な建築といえます。
【泉鏡花の句碑】
山門脇には、泉鏡花の「普門品ひねもす雨の桜かな」の句碑があります。普門品とは、法華経の一巻の名です。泉鏡花が神楽坂芸者・すずと恋に落ち、逗子の桜山に滞在していたのは明治35年と37年の夏であり、その折よくこの岩殿寺へ二人は足を運んでいたようです。当初、鏡花の不健康の原因となったのは、師(尾崎紅葉)を裏切って後年奥さんになられるすず夫人との同棲生活にあったようです。慢性の胃腸病に加えて、強度のノイローゼに苦しんでいた鏡花でしたが、適度の散策と老僧の情熱的な茶談に、健康を回復しました。この間、住職との対話をもとにした小説「春昼」などの悲恋物語を完成させました。そしてここの老僧に親近して、鏡花はのちに参詣者の憩いにと瓢箪池(心字池)を寄進しています。

○「逗子ローズプラザの庚申塔」(久木5-11)
バス道路まで戻りなおも北に向かうと、JR横須賀線の道路反対側のマンション「逗子ローズプラザ」の道路際に5基の庚申塔がありす。

○「法性寺」(久木9-1)
なおもバス道路を北に向かうと、踏切の手前に「法性寺」の入口があります。崖下にある寺で、崖の上には奥之院があります。この寺の縁起は見つかりませんが、鎌倉時代末頃の創建のようです。日蓮聖人が鎌倉の松葉ヶ谷で焼き討ちに遭った際(松葉ヶ谷法難)、3匹の白猿が日蓮を助けこの寺にある岩窟(奥の院左手)に案内したといいます。ただし、松葉ヶ谷草庵跡は3ヶ所あります。したがって、法性寺側から想定される松葉ヶ谷草庵跡とは、妙法寺(鎌倉市大町)と長勝寺(鎌倉市材木座)でしょうか。しかし、安国論寺(鎌倉市大町)にある南面窟に一旦逃れた後に、法性寺に向かったともいわれています。
【奥之院】
本堂の右手から上って行くと。奥之院があります。また、奥之院の左手山頂には山王大権現があります。お猿畑の大切岸が見渡せる高台の山頂にあり、法性寺の山門は遥か下の線路脇に見えます。また、奥之院の本堂左手には、日蓮聖人が鎌倉の松葉ヶ谷で焼き討ちに遭った際(松葉ヶ谷法難)に、3匹の白猿が案内して助けたという岩窟(やぐら)があります。日蓮聖人は、弟子の日朗に寺を建てるようにいいましたが、日朗はその前(元応2年=1320)に亡くなってしまいました。奥の院の前のお堂は、日朗廟になっています。日朗上人は、光則寺(鎌倉市長谷)裏の土牢に幽閉され、安国論寺で出家剃髪し、遺言により安国論寺の地で荼毘に付されました。
【お猿畑の大切岸】
奥之院から北に向かうと、法性寺墓地の奥に「お猿畑の大切岸」が見えます。名越切通しに近いこの墓地からよく眺められ、切通しの東南側には山腹を垂直に切り落とした人工の崖が、城壁のように三浦方面に向かって約800m続いています。
【鎌倉城址?】
この大切岸は、逗子市街からの県道鎌倉葉山線を鎌倉方面へと進むと山の稜線近くに両手を広げたように見られます。大切岸と呼ばれるこの崖は、鎌倉の覇権をものにした北条氏が三浦半島を拠点とする三浦氏の進入を防ぐ目的で築かれたものであると伝えられてきています。確かにその姿は、逗子側からの鎌倉侵入を拒んでいるかのように見られます。しかし、切岸が防衛を目的として築かれたものであることを証明するものは、これまでの調査からでは見つかっていないようなのです。切岸の構築年代は古くは鎌倉時代まで遡るようですが、遺構としては中世後期と考える説もあるようです。切岸と平場は、2〜3段の雛壇状に造られているところもあります。切岸上の尾根道は、鎌倉城外郭防衛道で鎌倉入口守備隊への物資補給路などであったといわれているようです。ただ、この大切岸は本当に防衛遺構なのかはそれを裏付ける資料は何もなく、以前は海蝕による崖岩が隆起したものともいわれていたようです。近年の発掘調査の結果では、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で堀残されたもの、つまり石切り場跡だということが確認されています。

○「名越切通し」(小坪7丁目)
法性寺墓地から尾根道に上り、左に行くと「名越切通し」になります。治承4年(1180)に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海にそれ以外の三方を丘陵に囲まれた要害の地でした。そのため陸路を鎌倉に入ろうとすると、多くは細く急な尾根越えの山道か危険な波打ち際の崖下の道であったと思われます。13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、その難渋さを除くため都市の基盤整備の一環として、のちに「鎌倉七口」などと呼ばれる切通路が開削されたと考えられます。そのうちの一つがこの「名越切通し」です。
【まんだら堂跡】
名越切通しの道標から小坪方面(南)に向かうと、すぐ左手に「まんだら堂跡」があります。まんだら堂跡にはおびただしい数のやぐら群があり、この一帯は死者の埋葬場プラス火葬場とういう一大葬送遺構であったようです。やぐらは、岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し、五輪塔などを置く墳墓です。太平洋戦争中の昭和16年から掘り起こされ、今見るまんだら堂跡の五輪塔は苔に覆われていますが、掘り出された当初は五輪塔に刻まれた梵字には金箔が貼られていたそうです。やぐらに埋葬された人々は、一説には新田義貞が鎌倉攻めをした時の戦死者を葬ったとか、名越一族の菩提寺跡だともいわれます。一定期間だけ公開されており、次の説明があります。
《まんだら堂が確認できるのは文禄3年(1594)の検地帳であるが、そこには畠の地名しか記載されていないので、どんな建物だったのかは不明である。やぐらの数は150穴以上が確認されており、これだけまとまったやぐら群を鎌倉市内でも見ることはできず、貴重な存在である。やぐらとは鎌倉市内に見られる独特の中世のお墓である。平地が少なく山間部に鎌倉石(比較的柔らかい)を削り、洞窟状態(普通2m四方程度の大きさ)に五重塔が置かれている。鎌倉アルプスの途中にも「百八やぐら」といわれるやぐら群が見られる。この遺跡は圧巻である。》

○「名越旧道の庚申塔」(鎌倉市大町5-19)
名越切通しを鎌倉市へと下っていくと、途中に首なし地蔵に並んで1基の庚申塔があります。

○「日蓮乞水(大田宅前)」(鎌倉市大町5-6)
さらに下って、JR横須賀線を渡り線路沿いに進むと「日蓮乞水」(にちれんこいみず)と呼ばれる井戸があります。鎌倉五名水の一つ。この井戸は、建長5年(1253)5月に日蓮が鎌倉に来た際、このあたりで喉が渇き水が飲みたくなり、杖を差すさすと水が出てきたものと伝えられています。日蓮は千葉から名越を越えて鎌倉の大町に入り、松葉ヶ谷に草庵を開きました。近くには長勝寺、銚子ノ井(鎌倉十井の一つ)などの見所もあります。

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