備中松山城の続編です。
城から麓に降りて、高梁の城下町を散策してみよう。
高梁の石火矢町には江戸時代中期から後期にかけての武家屋敷が見学出来る。
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「松山城下屋敷図」
残された文献を基に昭和44年に作成。
左端の茶色の部分が「備中松山城」で高梁川沿い南北に延びた城下町の都市計画が分かる。
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「旧折井家」
200万石前後の武士宅で母屋や長屋門、蔵がそのまま残っている。
お城の入城の際に共通券を購入したので、これら城下町もいっしょに見学出来る。
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「長屋門」の馬屋と仲間部屋
現在は事務所と休憩所、物置として利用。
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書院造りの母屋
箪笥や籠もそのまま残されている。
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中庭の池や庭石、踏み石はほぼ昔のまま残されていると言う。
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「資料館」
中庭を抜けた奥に資料館を設けている。
鎧、兜、槍、火縄銃、陣傘等が展示されている。
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「旧埴原家」(はいばら)
近習役(きんじゅう)や番頭役(ばんがしら)を勤めた武士の住宅。
随所に寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい武家屋敷です。
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入母屋造りで瓦葺の平屋
玄関には巾二間の式台と棚を設けている。
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玄関横の座敷には天井から槍が吊り下げられている。
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「蔵」
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「山田方谷資料室」
山田方谷(やまだほうこく)は備中松山藩の藩政や兵制を改革し、明治維新後は私塾や閑谷学校で多くの子弟に人材育成する。
庶民の出身ながら学問を身につけ、主君・板倉勝静から側近として信頼され、改革者として天下に知れた実力者でした。
つづく
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