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2015年12月02日07:06

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葉山町さんぽ「森戸海岸・三ヶ岡山緑地から旗立山(鐙摺城跡)」

葉山町さんぽ「森戸海岸・三ヶ岡山緑地から旗立山(鐙摺城跡)」

◎『三ヶ岡山緑地(大峰山)ハイキングコース』
葉山町の海岸線から眺めると、こんもりとした丘陵地が目に入ります。市街地にぽっかり浮かぶ、このグリーンアイランドが、「はやま三ヶ岡山緑地」です。 園内は3つのハイキングコースからなり、自然がとても豊かです。春先はヤマザクラやキブシの花が美しく、その後フジの香りでいっぱいになります。秋は、山全体が紅葉で彩られ、園路沿いではマユミやムラサキシキブの実を楽しむことができます。もう一つの大きな魅力が、広場や園路の脇からの海の眺めです。夕陽で有名な森戸海岸の眺望や、良く晴れた日には遠くに富士山を望むことができます。
【旧役場前バス停】
逗子(新逗子)駅前から長井方面行きのバスに乗り、旧役場前で下車します。道路反対側の逗子行きバス停の手前に、「はやま三ヶ岡山緑地 つつじコース」の標柱のありこの道に入っていきます。正面に見えている山が、これから向かう「はやま三ヶ岡山緑地」になります。道標に従って石段を上っていくと、最奥の民家からが緑地の山道になります。雑木林の中の横木の階段を上って、高度をかせぎます。
【東峰広場】
尾根に出ると、道標「尾根コース 至山頂」に従って左手に進んでいきます。すぐにベンチが二つ設置された「東峰広場」がありますが、周りは樹木に覆われていて展望はありません。
【東2峰広場】
横木の階段を上り返していくと「東2峰広場」に着きます。広場の正面が開けていて、北方に素晴らしい景色が広がっています。逗子の海岸や江ノ島が見えます。
【山頂広場(大峰山、標高148m)】
幅の広い横木の階段が続き、アップダウンして進んでいくと、東2峰広場からすぐで「山頂広場」(大峰山、標高148m)に着きます。東屋がひとつ建っていて、テーブルやベンチも数多く設置されていますが、 周りは樹木に覆われていて、残念ながら展望はほとんど得られません。ここからコースが二手に分かれています。 北側はあじさいコースであじさい公園への道で、西側は真名瀬コースで真名瀬漁港への道です。
【西2峰広場】
西側の尾根筋に続く真名瀬コースを進んでいくと、山頂広場から5分ほどでベンチが幾つか設置された西2峰広場があります。 周りは樹木に覆われていて展望はほとんど得られません。
【展望台】
西2峰広場を後にしてさらに尾根道を進んでいくと、横木の階段が現われます。 この階段を上っていって小ピークに着くと、木組みされた「展望台」があります。展望台からも素晴らしい景色が広がっています。江ノ島はもちろん、富士山も眺めることができます。富士山眺望100選の一つになっています。
【馬の背】
展望を楽しんだら、その先にある急な横木の階段を降っていきます。これまでの広くて緩やかな尾根道から一転して、狭くて急な道になります。両側が切り立って馬の背のようになっています。
【西峰疎林広場】
アンテナを過ぎると道はなだらかになり、周囲も広がってきます。広くなった道を少し進んでいくと、広い「西峰疎林広場」に着きます。樹林の中で展望はありません。西峰疎林広場の左手に続く道に入ると、横木の階段の急坂が麓近くまで続きます。樹木の合間からは葉山の海が見えるようになり、左手にあるのは沖合700mほどのところに浮かぶ名島という無人島で、龍宮を祀る赤い鳥居が建っており、その手前の海の中には高さ13mほどの白い葉山灯台(別名裕次郎灯台)があります。 右手には森戸海岸へと続く岩礁があり、海の向こうには江ノ島がぽっかりと浮かんでいます。
【熊野神社】
下りきると、やがて小振りな「熊野神社」があります。 左手には眞名瀬会館も建っていて、「真名瀬コース登り口 山頂まで約800m」と書かれた道標もあります。ただ、このコースの横木階段の急な上りはきつそうです。

○「熊野神社」(一色2480)
「熊野神社」は「真名瀬(てんなせ)の権現様」と呼ばれて親しまれてきました。社殿脇の大木や苔むした境内の石祠を見ると、歴史を感じさせます。江戸時代に紀州から漁業者が移住し、郷土の熊野神社を守護神として祀ったものといわれています。三浦半島にある熊野神社は、すべて紀州(西方)に向けて建てられているといいます。

○「森戸神社(森戸大明神)」(堀内1025)
バス道路に出ると、すばらしい真名瀬の海岸が望めます。北に向かうと「森戸神社」(森戸大明神)があり、森戸海岸の南側の岬に建つ源頼朝創建の神社です。葉山の総鎮守として親しまれ、古来より開運厄除や良縁、子宝安産の神様として篤い信仰があります。また、「かながわの景勝50選」に選ばれた「森戸の夕照」の美しさでも人気があります。
【飛柏槇(ヒビャクシン)】
神社裏手の階段を上ると、神木の「飛柏槇(ヒビャクシン)」があります。元暦元年(1184)、源頼朝が当社を参拝の折、三島明神から飛来し発芽したものと伝えられ、樹齢800年を誇る御神木です。古木が海上に乗り出した姿は非常に珍しく、葉山町天然記念物にも指定されています。
【千貫松】
千貫松は、神社裏手磯辺の岩上に切り立つ見事な枝ぶりの松の木です。源頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられています。
【名島(菜島)】
名島(菜島)は、神社裏手の磯辺より沖合700mに浮かぶ小さな島で、赤い鳥居が目印です。名島の左側には「葉山灯台(裕次郎灯台)」があり、夕陽に照らされて茜色に照らし出される姿は大変美しいです。
【森戸の夕照(ゆうしょう)】
神社裏手の海岸入口からは、夕暮れの時刻になると江ノ島、伊豆や箱根の山並み、富士山をも包み込むようにして空が茜色に染まり、それが海に照らしだされ、刻々と変化するその光景は大変美しいものです。
【石原裕次郎記念碑】
神社裏手の海岸入口には、湘南で青春を過ごし、この地をこよなく愛した俳優・石原裕次郎の記念碑があり、今も多くのファンが訪れています。石碑には裕次郎のブロンズ像、石原慎太郎氏自筆の詩が刻まれています。
「夢はとおく 白い帆に のって 消えていく 消えていく 水のかなたに太陽の季節に 実る狂った果実たちの 先達 石原裕次郎を 偲んで」
平成元年7月17日 石原慎太郎
【葉山灯台(裕次郎灯台)】
ヨットマンだった石原裕次郎さんの三回忌を偲び、兄の石原慎太郎が約1億円の基金を集めて建設しました。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれています。
【御大典記念碑2基】
昭和天皇の御即位50年を記念して、昭和50年に建てられた記念碑です。また、大正天皇の御即位を記念して大正4年に建てられた記念碑もあります。
【高橋是清の歌碑】
「堪忍の 股よりのぞけ 富士の山」 高橋是清
【マルチーノ公使・ベルツ博士の顕彰碑】
マルチーノ公使・ベルツ博士は、葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で、風光明媚であるということに注目し葉山が保養の地として最適であると皇室に進言し、明治27年に葉山御用邸が造営されました。その功績を称えて顕彰碑が建てられました。
【堀口大学の詩碑】
「花はいろ 人はこころ」 堀口大學
町制50周年を記念して建てられました。
【源頼朝別邸跡の碑】
源頼朝がこの地に別邸を建て、笠懸を催したり、三代将軍・源実朝や四代将軍・藤原頼経なども来遊した記録が『吾妻鏡』に残されています。
【みそぎ橋】
森戸の海浜は、鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められ、事あるごとにお祓いやみそぎが行われたと『吾妻鏡』に記されています。このような故事により、この海辺でみそぎが盛んに行われ、神社から海辺に通じる橋を「みそぎ橋」と呼ぶようになったと言い伝えられています。
【森戸神社の庚申塔】
参道右に1基の庚申塔があります。

○「長徳寺」(堀内805)
森戸神社の北東に「長徳寺」があります。南北朝のころ、建武2年(1335) 10月に寂した南山士雲の開創といいます。本尊は玉眼寄木造の毘沙門天木像。開祖は北条高時。ここに昔、森戸城があったのではないかといわれています。
【長徳寺の庚申塔】
境内左手に5基の庚申塔があります。雀塚、太子塔、馬頭観音と並んで8基の石塔がありますが、庚申塔5基、道祖神1基、地蔵1基、不明1基です。

○「相福寺」(堀内568)
長徳寺の北、福沢諭吉別荘跡の隣が「相福寺」です。本尊は阿弥陀如来像。現本堂は、明治6年から30年まで堀内学校校舎として児童教育の場でした。上山口の新善光寺とともに葉山における学校教育発祥の地です。
【福沢諭吉の別荘跡】
隣に慶応義塾の創始者・福沢諭吉の別荘跡(現宇部興産葉山寮)と、日産コンツエルン総帥の鮎川義介の別荘跡(現帝石海の家)が隣接しています。また、桐島カレンの住んだ洋館もこの近くにあります。

○「日吉神社」(堀内)
相福寺の北西に「日吉神社」があります。森戸大明神の境外末社です。
【脇町の庚申塔】(堀内324)
日吉神社の南、葉山逗子海岸道路沿いの路傍民家の間に、10基の庚申塔があります。真中の後ろにある供養塔は、明和9年(1772)に造られた板碑の庚申塔で道標にもなっています。正面に「庚申講中」、右側面には「右みさきみち」、左側面には「左うらがみち」と刻み、三崎街道と浦賀道の追分にあったものと思われます。

○「清浄寺」(堀内284)
葉山逗子海岸道路を北に向かうと、日吉神社の西に「清浄寺」があります。本尊の阿弥陀三尊像は室町時代前期に造られたものと推定され、葉山町指定重要文化財となっています。清浄寺は三浦半島・新三十三観音霊場第2番札所(札所ご本尊・聖観音)となっています。
【清浄寺の庚申塔】
山門を入って右側に、念仏講塔と並んで1基の庚申塔があります。

○「諏訪神社」(堀内218)
清浄寺の北隣、アサヒビールの研修センター左脇に「諏訪神社」があります。

○「須賀神社」(堀内44)
葉山マリーナのすぐ東方に「須賀神社」があります。祭神は須佐之男命。御神体は海岸に漂着した「肥びしやく」という珍しい物で、森戸大明神の境外末社です。
【海宝寺(戒宝寺)】(堀内42)
旗立山の南側、須賀神社の北隣に「海宝寺」(戒宝寺)があります。道路沿いに「小浜」というさっぱり味の美味しい支那そば屋さんがあり、その裏側に海宝寺があります。本尊は聖観世音菩薩。三浦33観音の24番札所。境内にある奪衣婆(だつえば)の石像が珍しいです。以前の本堂は、鈴喜三郎助(味の素創始者)邸敷地内の2階屋を移築した建物だったといいます。
【海宝寺の庚申塔】
境内に、六地蔵他と並んで1基の庚申塔があります。

○「旗立山(鐙摺城跡)」(堀内)
海宝寺のすぐ北側、葉山の老舗料理屋「日影茶屋」の向かいの駐車場に、「旗立山」(鐙摺城跡=あぶずりじょうし)への上り口があります。高さ20m程度の見晴らしのいい丘は、鎧摺の風景にとても馴染んでいるように見えます。頂上からは、葉山港の向こうに江ノ島が見えます。蛭ヶ小島に配流された源頼朝が治承元年(1177)三浦を訪れた際、この山を馬で上がろうとしましたが険峻で狭隘な道のため、馬の鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる為の馬具)が地に摺れた事から鐙摺の名がついたといわれます。治承4年(1180)に源頼朝が挙兵。それに呼応した三浦党が小浜から出港し、その帰りに畠山軍と由比ヶ浜で小競り合いしたとき、この小山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名がついたといいます。また、小田原北条氏と戦った三浦道寸がこの山から敵を偵察したので軍見山ともいいます。
【伊東祐親供養塔】
山頂には、ここで自害したともあるいは首を刎ねられたともいわれる伊東祐親(すけちか)を祀ったとされる供養塔があります。現在、基礎はありますが供養塔は見当たりません。伊東祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年 (1159)の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任されます。頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられます。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、助命嘆願があり、一時は一命を赦されましたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てました。子孫には、富士の巻狩りの場で仇討をした曾我兄弟がいます。
【日本ヨット発祥の地碑】
葉山マリーナの先に「鐙摺(あぶずり)葉山港入口」という信号があります。ここを左(西)に折れて入ったところが葉山港の管理事務所、近くにヨットの帆の形をした発祥碑があります。日本にヨットが伝えられたのは、横浜の居留地に住む外国人がヨットクラブを作ったのが最初とされますが、当時の農商務司法大臣金子堅太郎伯爵の子息が明治15年にヨットを建造し、葉山で楽しんだことが日本人による最初のヨットといわれます。葉山港はかつて鐙摺港と呼ばれる小さな漁港でしたが、これを契機に多くのヨットが集まるようになり、昭和30年には国体ヨット競技会場になり、ヨットハーバーとして名を知られるようになりました。

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