mixiユーザー(id:7184021)

2015年11月26日06:22

3036 view

横須賀市さんぽ「長浦町・常光寺から塚山公園(按針塚)」

横須賀市さんぽ「長浦町・常光寺から塚山公園(按針塚)」

◎『旧海軍軍需部と長浦』
横須賀の海軍工廠は明治から大正にかけて規模を拡大し、大正12年に「横須賀海軍軍需部」が新しく設置されました。庁舎ははじめ湊町(現在の汐入町1丁目)にありましたが、さらに規模を拡大するため、田ノ浦海岸が海軍により買い上げられ湊町から移転することになりました。当時、この地区に住んでいた長浦の村民は、立ち退かされ現在の安針塚駅近くに移り住みました。横須賀海軍軍需部の本部は田の浦に置かれ、JR田浦駅の裏にある数多くの倉庫が長浦倉庫と呼ばれていました。長浦・比与宇・田ノ浦、郷戸・狢・日向地区、吾妻山・箱崎の本部地区のほか、久里浜倉庫・池子倉庫・久木倉庫・大船倉庫などに分かれていました。戦前・戦時中、軍需部前駅(現在の安針塚駅)から軍需部など、海軍関係の施設へ通う人々で行列が続いたといいます。戦後、軍需部等軍の施設は進駐してきた米軍が使うことになり閉鎖されましたが、1年足らずで日本に返され、昭和21年には、東京湾倉庫(後に相模運輸倉庫)などの民間会社が旧海軍施設に進出し操業をはじめました。その後、付近は海上自衛隊や米海軍に使用され、一部横浜ベイスターズ球場などになっています。

○「吉倉公園」(吉倉町1-4)
京急安針塚駅から東方の横須賀本港に向かうと、「吉倉公園」があります。
【芥川龍之介「蜜柑」の碑】
吉倉公園の北東角に、芥川龍之介「蜜柑」の碑があります。龍之介は、横須賀にある海軍機関学校の英語教官として勤務していたことがあります。その際、通勤の便などから鎌倉、横須賀などに居を移しました。作品「蜜柑」は、海軍学校教官時代に鎌倉への帰路、横須賀線内でたまたま出会ったことを題材にして書かれました。小説に出てくるのは長浦トンネル(長浦ー田浦港町)といわれ、公園入口近くには、横須賀線の車中から弟たちに蜜柑を投げた少女をモチーフにした少女銅像もあります。海軍教官時代の芥川龍之介は、「蜘蛛の糸」、「地獄変」、「奉教人の死」などの名作が次々とうまれています。
【JR吉浦トンネル】
田浦のトンネルの中でも歴史の古いのが、「JR吉浦トンネル」(長浦〜吉倉)です。重厚なトンネルには、当時のレンガ職人が一つずつたんねんに積んだすぐれた技術が見てとれます。下りトンネルは明治22年に建造され、上りは大正末期に電化と複線化によって完成しました。

○「安針台公園」(長浦町1丁目)
吉倉公園から北西に急坂を上ると「安針台公園」があります。横須賀本港に浮かぶ自衛艦や米軍イージス艦などを見ることができます。

○「比与宇トンネル」(長浦町1〜田浦港町)
安針台公園から北西に向かうと、長浦町1丁目と田浦港町を結ぶ「比与宇(ひよう)トンネル」があります。戦前まで、田浦駅(JR)構内からの軍事用引込み線のトンネルでした。周囲一帯は弾薬庫とその施設で、弾薬の積み降ろしはこのトンネル内で行われました。列車の軌道はトンネル内でスイッチバックするもので、しばらくは軌道と車道が同居するめずらしいトンネルでしたが、現在、軌道は廃線となっています。トンネルの西側入口手前のアスファルトでうめられたレールが、当時の面影を残しています。

○「常光寺」(長浦町2-86)
横須賀街道(国道16号) まで戻ると、JR長浦トンネルの出口にあたる山腹に「常光寺」があります。本尊は阿弥陀如来像。鎌倉幕府3代将軍の源実朝の家来であった鈴木三郎常広の二男・常光が、実朝の菩提をとむらうため衣笠荘に開いた寺でした。常光は承久元年(1219)、八幡宮で主君の非業にあい無情を感じ高野山に入って出家します。2代和尚の時に寺を衣笠から長浦(荒井)へ移し、慶長の頃に現在地に移りました。
【常光寺のシダレザクラ】
常光寺の右手の石段を登った左手の斜面に、枝ぶりのすばらしいシダレザクラがあります。
【瀬戸口藤吉の墓】
シダレザクラの近くに、「軍艦行進曲」の作曲者・瀬戸口藤吉の墓があります。藤吉は明治元年に鹿児島県で生まれ、明治10年に横須賀へ来て、のちに東京の海軍軍楽隊に入りました。明治30年ごろ、横須賀海兵団にいたときに軍艦行進曲を作曲し、その後マーチの形の曲にしたのは明治33年で、その年の神戸観艦式のときに演奏されました。瀬戸口藤吉は大正6年に退官。昭和16年、74歳で亡くなりました。

○「長浦神社」(長浦町2-76)
田の浦交差点(長浦交番)の裏側の山腹に、「長浦神社」があります。横須賀街道(国道16号)上り線のトンネル手前に鳥居があります。文禄4年(1595)の勧請。大正15年、社地一帯の田の浦浜が海軍軍需部用地として買い上げられたため、その年の12月に現在地に遷しました。このあたりの漁師の厚い信仰に支えられた社で、大漁のときは「おぶり」といってその魚の一部を社で撒いて大漁を祝い、撒かれた魚は土地の人たちが拾ってごちそうにしたといいます。
【旧長浦トンネル】
明治43年に開削された素掘りのトンネル。現在は、常光寺参道のつきあたりに出入り口が残されていて、昔をしのばせてくれます。
【旧海軍水道路トンネル(新長浦トンネル)】(長浦町5丁目)
大正7年、相模川支流の半原からの海軍の水道施設として掘った、田の浦と田浦を結ぶ水道路トンネルの通行が許可され、逗子〜逸見の間の道が通れるようになりました。水道路トンネルの利用は、昭和3年の旧31号国道の開通までのわずか10年間でしたが、当時は大変便利であったといいます。

○「吾妻神社」(長浦町5-15)
新長浦隧道の上の小山に「吾妻神社」があります。長浦神社の鳥居の手前から、長浦〜田の浦を結ぶ古道があって、この山道を上って行くと吾妻神社に着きます。古道は、明治43年に手掘りのトンネルができるまでは主要道路でした。吾妻神社は、草が鬱蒼とし深山幽谷の趣きがあります。箱崎半島(現在米軍施設)は、かつて吾妻島といいました。それは走水で入水した弟橘比売命(おとたちばなひめ)の簪(かんざし)が、この島に流れ着いたという伝説によるもので、山頂には倭建命と弟橘比売命を祀った吾妻神社がありました。明治33年、箱崎町が軍用地になったためこの地に移遷されました。
【吾妻神社の道祖神】
境内に、横須賀では珍しい嘉永5年(1852)銘の道祖神があります。
【箱崎半島(吾妻島)】
箱崎半島は、はじめは漁と船の航行に便利な北部海岸から吾妻山の東のふもとの荒井海岸にかけて、漁業を営む民家が建てられました。明治7年横須賀に造船所がおかれ、さらに明治10年軍港に指定され防備上の施設が各地につくられました。明治15年箱崎は砲台建設のため陸軍に買い上げられ、明治22年吾妻山麓に堀割ができ、さらに明治33年に海軍に買収され、信号所や測候所がつくられたため、漁業を営んでいた民家は、やむなく田の浦地区などへ移転をしました。箱崎半島は明治から現在にいたるまで、旧海軍軍用地(貯油場)として立ち入ることが許されず、現在は米軍と自衛隊の管理のもとにあります。『田浦町誌』(昭和3年)によると、安政年間に旭松閣吉隆が選んだといわれる「北郷八景」に、次の二つが入っています。
「箱崎夜雨」(箱崎や明けなばいかに夜もすがら 雨の音そう岸の松風)
「吾妻晴嵐」(嵐ふく吾妻の峯に雲はれて とふねもなみの花ぞきにける)
【箱崎半島にあった長浦消毒所】
明治10年の西南の役での戦傷病者を輸送するため、和歌山丸と東海丸が派遣され、その帰航中に船内でコレラが発生しました。政府は、両船に長浦湾口での停船を命じ、急きょ箱崎に仮の避病舎を建て診療にあたりました。この年のコレラによる死者は8千人。明治12年には10万人以上という明治期最大の被災となりました。神奈川県は地方検疫局を設置し、箱崎に「長浦消毒所」を開設しました。しかし、日清戦争が始まると横須賀軍港の拡張にせまられ、長浦消毒所は明治28年金沢村の人家の少ない長浜に移転し長浜検疫所が開設された。同32年には「横浜海港検疫所」として設備を一新しました。この時、検疫官補として野口英世が赴任しています。

○「東福寺」(長浦町5-34)
JR田浦駅の南東に「東福寺」があります。本尊は薬師如来立像。開山は享禄年間(1528〜31年)、震江東公座元禅師が浦郷の自得寺2代目住職を隠居して、箱崎に移ったのがはじまりといいます。
【東福寺の庚申塔】
境内奥、本堂と住居の間の六地蔵堂の一番左が、享保14年(1729)銘の庚申供養塔です。

○「のの字坂」(田浦町1-35)
東福寺から南に向かい右折「ながかまトンネル」を潜り、左折すると道が立体交差します。この交差が「の」の字になっていることから、土地の人は「のの字坂」と呼んでいます。戦前、城の台砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路です。1回転半以上まわって上った先は、十三峠(旧浦賀道)となり、塚山公園(安針塚)へのハイキングコースになっています。
【秋田景盛屋敷跡(城の台)】(田浦町1丁目、月見台団地)
十三峠の標柱から左手(北方)に向かうと市営月見台団地で、この丘陵上の平地を「城の台」といいますが、土地の人は「しろんだ」と呼んでいます。約700年前、鎌倉幕府家臣の秋田城之介景盛・義景親子の下屋敷があったと伝えられています。長浦湾を眼下に眺望の良いこの地も、戦争中は兵舎や砲台があり一般の人は立ち入りできませんでした。
【唐衣と白狐の伝説】
城の台には、「唐衣と白狐」の伝説があります。鎌倉幕府の重臣・秋田城之介が、城の台の屋敷で観月の宴を催しました。小姓に化けた狐が、唐衣がひく琴の音にさそわれて聞いていましたが、怪しまれ斬り殺されて、頭部を城の台の森の大木に白狐稲荷として祀られました。城の台の北側のがけにあるシイの大木の根元(田浦町2-28付近)に、「白狐(しろぎつね)稲荷」がひっそりとあります。

○「太田坂と道六神」
十三峠の標柱から西に下って行く坂道(石段、旧浦賀道)は、「太田坂」(おったざか)と呼ばれています。長善寺へと下る坂道の途中に小さな石碑があり、これは天保12年(1841)に建立された「道六神」(道祖神)です。道祖神は、十三峠を越えてきた悪霊をここでさえぎると、当時の人は考えていたようです。また道行く人を守る神ともされ、昔、旅人がこの道六神の前まで登ってきてやれやれと一休みし、旅の安全を祈り上っていきました。

○「十三峠道(旧浦賀道)」(田浦泉町)
十三峠標柱(太田坂上)から民家の間の尾根道を南、安針塚へと向う道が「十三峠道」(旧浦賀道)といわれています。この旧浦賀道も現在では舗装された車道に変わっていますが、昔はけわしいところで、登り下りする旅人や村人たちにとって非常につらい山道でした。途中から、遠く横浜ランドマークタワーや長浦湾、千葉の臨海工業地帯の工場群が眺望できます。十三峠の名の由来には、いろいろな説があり、保土ヶ谷より13番目の峠ということで名づけられたという説や、峠に十三仏をまつった寺か神社があってそれにちなんだもの、あるいは十三塚の信仰にまつわる説などがあります。
【広重の「浦賀道 田浦山中」】
安藤(歌川)広重は、寛政9年(1797)〜安政5年(1858)に活躍した浮世絵師の第一人者です。嘉永6年(1853)広重は三浦半島にも足を運び、『武相名所旅絵日記』に、「大津」、「浦賀総図」、「三浦の郷」、「毛見(逸見)の山中風景」、「田浦の里 農家に休足」と「浦賀道 田浦山中」などを描いています。「田浦の里 農家に休足」の絵は4人旅の折の絵で、田浦の農家にひと休みしたとき主人が「記念にご一筆を」と紙を出すのに、心安く矢立の墨を使って筆を走らせているようすが描かれ、ほのぼのとした温かいものを漂わせています。眺めのすばらしい十三峠は広重も描いており、「浦賀道 田浦山中」は古道の浦賀道をたどり、昼なお暗い難所の山道を越えて十三峠の山頂に立ち、眼下に繰り広げられた風光明媚の眺望、遠くつらなる房総の山々に目をうばわれ足をとめて描かれた絵です。
【開拓記念碑】
十三峠道の途中、右手の公園に「開拓記念碑」の石碑があります。昭和32年1月に建てられました。このあたりを新しく切り開いて、農地などをつくり始めたのは戦後のことです。
【畠山城跡】
十三峠道が大きく左折する付近に、「畠山城跡」と伝えられるところがあります。これには二つの説があって、一つは、昔ある武将がこの城にたてこもったのを、水路を断って亡ぼそうと計りましたが、武将は馬を敵の見えるところに引き出して白米をもって馬を洗って見せました。それを遠くから見て米を水と思った敵将はついに水攻めをやめて、軍を解いたといいます。また、一説には三浦大介の妹の長子・畠山重忠が衣笠城を攻めるときに作った城(または館)だとも伝えられています。この山は、当時畠山勢の進軍の先兵の物見にでも使われたのではないかといわれています。この北方の山の下には、矢落と呼ばれる地名も残っています。
【矢落山】
高熊川の源流地であり田浦泉町谷戸の奥にある山は、昔は「矢落山」といわれていました。矢落の由来は、弓にすぐれた源為朝は保元の乱で敗れ、とらわれて伊豆の大島に流されました。あるとき、弓を引く力がにぶっていないか確かめるため、力いっぱい遠くへ射った矢がこの地に落ちたとか。また、畠山重忠にまつわるもので、攻防両軍の矢が落ちたところといわれています。
【判官城跡】
按針塚に向かっていくと中央右側の高台に、判官城跡があります。北条時代に塩谷判官正憲が城壁をつくり居住しましたが、小田原北条氏のために亡ぼされたといいます。判官城は、その後「半ケ城」(はんがしろ)と呼ばれました。以前は「半官城址」という案内板がありましたが、現在はあません。このあたりを半ケ広(半ケ城、坂ケ拾)といわれ、『三浦古尋録』(文化9年=1812)にも、「陸路ハ難所ニテ七里八坂ト云是坂ケ拾(はんかひろい)通リト云風波悪キ時ハ此山路ヲ往来ス」とあります。
【泉稲荷】
判官城(現在は半ケ城)の下(田浦泉町18付近)の大きな木の下に、「泉稲荷」があります。唐衣と白狐の伝説に出てくる胴体を、判官城の真下にあたる場所の大樹のもとに稲荷神社を建て、祀ったと伝えられています。横に由来が書かれた説明板があります。

○「塚山公園」(西逸見町・山中町・長浦町)
標高133mの小高い山の上に広がる「塚山公園」は、古くからの桜の名所です。日本に数々の西洋文明を伝えた三浦按針とその妻(お雪)をまつった「按針塚」を中心に広がります。例年4月上旬には横須賀市四大国際式典の三浦按針祭観桜祭が、同時期に塚山公園さくら祭が開かれます。塚山公園は「かながわ景勝50選」「かながわ花の名所100選」にも選ばれています。「見晴台」「港が見える丘」からは、遠くは房総半島や横浜、眼下には横須賀港、猿島などが見渡せます。
【さくら祭】
ソメイヨシノをはじめとしてヤマザクラ・オオシマザクラなど数種類の桜、約1,000本が春に開花します。例年、3月の中旬から4月初旬までさくら祭りが開催され、山の上には屋台が並び、多くの人で賑わいます。桜の花のトンネルの下で、眼下に広がる東京湾を眺めながらのお花見は格別です。
【按針塚(三浦按針墓碑)】
三浦按針は、英国人で本名はウイリアム・アダムズといい、徳川家康の信任を得て、この地三浦郡逸見村に250石の領地を与えられ、外交顧問として仕えたほか、砲術・造船術・航海術などの西洋文明を伝えました。妻は江戸日本橋大伝馬町の名主の娘・お雪です。元和6年(1620)、按針は平戸で病死し、55年の生涯を閉じました。アダムズの領地であった逸見にある塚山公園には、按針の遺言によってこの地に建てたと伝えられる2基の供養塔が残されています。凝灰岩でできている右塔が按針、安山岩でできている左塔が妻の供養塔です。

○「長願寺」(長浦町3-19)
塚山公園から北に安針塚駅へと下っていくと「長願寺」があります。本尊は阿弥陀如来像。創建については不明ですが、享保元年(1716)に亡くなった春誓が中興開山といわれます。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する