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2015年11月15日07:47

1842 view

横須賀市さんぽ「久里浜・くりはま花の国からペリー公園」

横須賀市さんぽ「久里浜・くりはま花の国からペリー公園」

○「長安寺」(久里浜2-8)
京急久里浜駅の南西に「長安寺」があります。開基は19世僧然誉薫阿禅芳、開山は法連社龍誉、天文2年(1533)の創建と伝えられています。三浦不動尊第9番、三浦地蔵尊第6番札所、そして干支守り牛年本尊のお寺です。
【不動三尊像】
不動堂にある「不動三尊像」(1351年造)は、和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀の守り本尊で、三浦一族の繁栄祈願のため久村丸山の里に祀られたものです。享保年間に水害のため、長安寺に移されました。
【枝垂れ梅】
長安寺の枝垂れ梅は、この地区では一番早く咲きます。

○「八幡神社」(久里浜2-17)
長安寺の北に「八幡神社」があります。由緒書きによると、『日本書紀』が書かれた養老4年(720)、当時の武人達によって創建されたと伝えられています。この付近は古墳時代の部落があり、土器片や埴輪のかけらなどが採集されています。天正18年、豊臣秀吉は天下統一の最後の小田原攻めにより三浦の北条氏を滅ぼし鶴岡八幡宮に祈願し、栗浜(現久里浜)八幡神社には米三石を寄進し、徳川歴代将軍もこれにならい継承し武運長久祈願に武具などを奉納し、幕府の直轄地(天領)と定め米三石、社領千余坪の御朱印を賜りました。拝殿の天井にある龍の絵は、長島雪操尚賢(なおかた)が描き、献額の献架をかざる菊は、浦賀の女流文人宮井玉苑の筆によるものといわれています。
【海軍工作神社】
多分、日本でここ一社と思われる「海軍工作神社」という珍しい境内社(本殿右手)も祀られています。
【八幡神社の庚申塔】
海軍工作神社の前に1基の猿田彦大神があります。

○「正業寺」(久里浜2-19)
八幡神社のすぐ西に「正業寺」(しょうごんじ)があります。本尊は阿弥陀三尊。永禄9年(1566)に没したと伝える元清が創建したと伝えられています。創建後何度か荒廃し、寛文年間(1661〜72年)に、内川新田の開拓者砂村新左衛門が現在地に移しました。
【砂村新左衛門の墓】
境内に砂村新左衛門夫妻の墓があります。砂村新左衛門は、大阪上福島出身(福井県鯖江市とする説も)といわれ、土木事業の指導者です。内川新田の開発を手掛けたり、他にも正業寺を復興したり、江戸の宝六島(東京都江東区砂町)、横浜の野毛新田なども手掛けました。内川新田は225石の生産高があったそうです。
【田中辰雄の墓】
墓地には、歌人・田中辰雄の墓があります。若山牧水の主宰する「創作」に歌を発表し、優れた歌人として注目されながら22歳で没しています。
【正業寺の庚申塔】
入口左の小屋に1基の庚申塔があります。

○「茅山の庚申塔」(佐原5-24)
正業寺の西方に「茅山(ちやま)の庚申塔」があります。元々は、現在地よりも100mほど久村寄りの丁字路の山裾にありました。6基あるうち、最古のものは享保4年(1719)、最新のものは天保13年(1842)に建てられました。

○「慈眼院」(佐原5-22)
茅山の庚申塔の北方に「慈眼院」があります。「茅山の観音様」として親しまれており、境内からは見晴しのいいところです。本尊は聖観世音菩薩で、文禄元年(1592)海の中から出現したと伝えられています。この観音様の体内には、地元の漁師が網であげた小さな石仏が入っているともいわれています。三浦33観音第17番札所。
【慈眼院の坂】
慈眼院の正面の108段の石段は「慈眼院の坂」と呼ばれています。横には、緩やかな女坂があります。
【慈眼院脇の坂】
慈眼院左脇の坂は、「観音様と芽山の里を結ぶ坂」と呼ばれています。
【茅山貝塚】
慈眼院裏手の畑の中に「茅山貝塚」の説明板があります。今から6500年前頃は現在の平地は海で、この場所が海に突き出た低い丘になっていてここで生活をしていたようです。貝塚にはマガキが多く、東西20m、南北10m前後に広がり、貝の堆積は4mにもなっていました。ここからは土器も発見され、食物繊維を多量に含み、きめの粗い粗雑な作りの深鉢形の者が多く、土器の表面をアカガイなどの貝の背で仕上げていて、貝のすじ跡がたくさん付いているのが特徴で、「茅山式土器」となづけられました。明治時代には、この貝塚の貝を、石灰製造の原料にされてしまい半分ほどがなくなってしまいました。

○「等覚寺」(久村479)
茅山の庚申塔の西方に「等覚寺」があります。天正12年(1584)の創建で、日大上人の開山と伝えられ、延宝7年(1679)現在地に移ってきました。本堂左手には観音堂があり、千手観音像が安置されています。両脇には、阿吽形の仁王像もあります。千手観音像は11世紀後半に、慈覚大師が造ったと伝えられています。三浦33観音第16番札所。
【等覚寺の竹林】
等覚寺の竹林は、美しく整理されこの竹林を見ると心が和みます。
【等覚寺のシダレザクラ】
等覚寺の樹齢約100年のシダレザクラは、三浦随一だそうです。

○「御滝神社」(久村535)
等覚寺の南方に「御滝神社」があります。創建は文治年間(1185〜90年)で、祭神は瀧口五郎盛定です。以前は9月18日に祭礼が行われていましたが、現在は8月第一土日曜日に行われています。
【瀧口盛定】
瀧口盛定は、民部大輔藤原盛重の子として成長し白河天皇に仕え、その後、高尾山に登って入道しました。盛定は、後三浦氏の客人として平作に居住していました。その郎党の捨平は、盛定が高尾山の神護寺へのお参りの帰りに拾われ養育されていましたが、成長と共に慢心がつのり、主命に逆らって手打ちになるところを、海雲和尚の命乞いにより救われました。そしてこの久村に草庵で行を修めました。ある日、捨平が老桜にからむツルを抜き取ると、清水が湧き出て滝となって流れ落ちました。以前から久村の住民は水不足に苦しんでいましたが、水の心配をすることが泣くなり、捨平が新田を開発して名主になりました。名を捨平から、瀧本盛兼と名乗りました。盛兼は、老桜が枯れたおり、その木を使って主の瀧口盛定の像を彫り、祠を建てて水の神様として祀り、御滝権現としたと伝えられています。
【滝の井戸】
神社裏手には、「滝の井戸」と呼ばれる湧き水があるそうで、そこには万延元年(1860)造立の不動明王が祭られています。かつてはかなりの湧水量があったようで、水田のほかにもアユの養殖場まであったそうです。しかし、次第に水不足となり住宅も増えてきたことにより、養殖場は埋め立ててしまったそうです。
【御滝神社の庚申塔】
境内左奥に8基の庚申塔などがあり、その中に縦に3匹の猿の並んだ享保13年(1728)建立の変わった庚申塔があります。

○「久里浜天神社」(久里浜5-19)
京急久里浜駅まで戻り、南東に向かうと「久里浜天神社」があります。万治3年(1660)、内川新田の開拓に集まってきた人たちの心のよりどころとして、砂村新左衛門が、かつて自分が住んでいた摂津西成郡上福島村(現大阪市福島区)から天神社を勧請しました。寛文5年(1665)、同じく摂津から勧請して水神社(祭神・天照大神)を合祀し、水害、水難等の安堵を祈らせました。菅原道真の神像と、飛井の人々によって演じられていた虎踊りのトラが保存されています。
【牛乗り天神像】
境内に、牛乗り天神像があります。菅原道真と牛には深い関係があり、最近作られたようです。
【酉の市】
久里浜天神社の師走最初の行事は、12月5日に行われる酉の市です。
【久里浜天神社の庚申塔】
本殿右奥に15基の石像があり、その中に9基の庚申塔が並んでいます。近隣から集められたようで、造られた時代によってデザインが違うようです。

○「蓼原遺跡(神明公園)」(神明町1)
神明公園から神明小学校にかけての地下には、「蓼原(たではら)遺跡」があります。昭和11年に赤星先生により一部の発掘調査が行われた時、貝塚が発見されました。そして、形象埴輪、円筒埴輪、土器、金属器などが出土しました。現在は市民の憩いの場として、開放感のある神明公園になっています。
【琴を弾く男子の埴輪】
昭和54年から本格的な発掘調査が行われ、その結果、琴を弾いている男子の埴輪や、円筒形の埴輪をはじめとするたくさんの遺物が出土しました。横須賀市深田台にある横須賀市自然・人文博物館に展示されています。

○「くりはま花の国」(神明町1)
「くりはま花の国」は、自然を保護しながら緑豊かな自然とのふれあいができる場所で、首都圏の花の名所として有名なコスモス・ポピー園、ゴジラの滑り台ほかアスレチックなどがある冒険ランド、130種約3万株のハーブ園と足湯「湯足里(ゆったり)」、大人も夢中になるパークゴルフ場、展望台がある芝生広場、各県の木を集めた県木の広場、樹木園、つばき園があります。園内には汽車型のフラワートレイン(運行本数:11月〜3月はトレイン1台運行、土・日・祝日はトレイン2台運行です。また、くりはま花の国に隣接しアーチェリー・エアライフル場・花の国プールもあります。

○「伝福寺」(久里浜8-23)
くりはま花の国の南に「伝福寺」がありますが、入口が分かりにくいです。本尊は阿弥陀三尊、開山は鎌倉時代安養院第15世の昌誉、創建は大永7年(1527)昌誉能公によります。三浦33番札所の第16番札所で、三浦観音第12番の千手観音(像高35.5cm、銅造)も祀り、三浦地蔵第7番の半跏像も祀っています。特に半跏像は三浦半島では最大で、室町時代〜江戸時代にかけての作と考えられています。
【長島尚賢(雪操)の墓】
墓地には、天保の頃から八幡久里浜の名主で尻こすり坂の開削に貢献した、俳人で画家の長島尚賢(雪操)の墓があります。「寿勝院不退雪操居士」と刻まれています。明治29年に79歳没。
【蒸気船早丸の碑(埋蔵金伝説)】
本殿左奥に、昭和11年蒸気船早丸(はやまる)の遺族が建立した碑があります。明治2年の夜半、嵐に乗じて密かに横浜港を出港した船がありました。目的地は上海で、乗組員は外国人を含め約80人。船が久里浜沖の海鹿島(あしかじま、昔はアシカが住んでいました)にさしかかったとき、暗礁に乗り上げ沈没してしまいました。船倉には、当時の国際的通貨であったメキシコ銀が6万ドル、伊予別子銅山産のなまこ銅140万匁、青銅器40万匁、その他毛織物、生糸、小銃弾薬、仙台藩の53万両、越後藩の黄金の灯籠、幕府御用金400万両などが隠されていたといいます。その後、「浜には生糸が流れ着いた」とか、「海鹿島の南側は、確かに船のようなものが沈んでいて、今でも網がよく引っかかる」という漁師たちの伝聞を手がかりに、多くの人が埋蔵金伝説の夢を追いました。
【伝福寺裏遺跡】
伝福寺の裏で神明町の清掃工場の建設に伴って、多くの植物化石(材、根、果実、種子などの化石)と共に、縄文時代(約5000年前)の丸木舟が出土しました。資料によると、昭和56年の調査で、地下4mの砂地から縄文時代前期〜中期のものとみられる、ムクノキをくり抜いて造った全長3mの丸木船が見付かったとあります。三浦半島の縄文人は、早くから丸木舟を造り、当時衣笠付近まで入り込んでいた古久里浜湾内を縦横に舟で行き来し、湾内で魚を取っていたようです。しかし、伝福寺の裏手は道路なのでどこに遺跡があったのかは確認できません。

○「千駄ヶ崎旧隧道」(新明町)
伝福寺から西に向かうと、廃棄物処理場の先に煉瓦造りの「千駄ヶ崎旧隧道」があります。大正15年竣工で長さは100mほど。そのためか霊感の強い人にはそれなりだとか。このポールト構造のトンネルは、千駄ヶ崎砲台に弾薬を運ぶために作られた軍用道路だそうです。
【廃棄物処理施設前の庚申塔】
千駄ヶ崎旧隧道の手前、廃棄物処理場の前の山道端に6基の庚申塔があります。

○「住吉神社」(久里浜8-29)
東京湾フェリーターミナル入口近くに「住吉神社」があります。創建年代不詳。『吾妻鏡』『相模風土記』等により、約千年前と想定されます。三浦一族の水軍の船霊として信仰され、治承4年三浦義澄は衣笠城落城の前夜一族を引き連れ栗浜大明神(現住吉神社)に祈願し、山頂の松に幟を立て(旗掛けの松)源頼朝と共に安房へ渡ったとの伝説のある神社です。文治元年1月には、源頼朝が政子と共に参詣しています。
【住吉神社の庚申塔】
二の鳥居の先の左手には5基の石造物があり、一番左側は青面金剛、他の4基は猿田彦大神です。

○「ペリー公園」(久里浜7-15)
久里浜港のすぐ近くの「ペリー公園」に、「ペリー上陸記念碑」と「ペリー記念館」があります。嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、4隻の黒船を従えたペリーが久里浜に上陸しました。その後緊迫した外交交渉の末、日本は開国の道を選択しました。幕末の志士たちもこの場所で、日本の将来を話し合いました。
【ペリー上陸記念碑】
明治33年10月に、ペリー艦隊の一員として来航した経験のあるアメリカ退役海軍少将ビアズリー(来航当時17歳)が来日し、久里浜にペリー上陸を記念する碑すら無いのは残念だと米友協会で演説しました。このことが契機となって、米友協会を中心として上陸記念碑建設の運動が起こり、募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成しました。建碑の時、入港した浦賀か、上陸した久里浜かで意見が分かれましたが、久里浜の小川伝七の強い要望で久里浜に決定しました。碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」は伊藤博文の筆によるものです。毎年7月、横須賀市がペリーの上陸を記念する式典を開催しています。
【ペリー記念館】
黒船来航時を描いた絵巻物や当時の久里浜港の様子を再現したジオラマなど、開国に関するさまざまな資料が展示されています。

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