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2015年11月08日06:23

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三浦市さんぽ「三浦海岸・十劫寺から清伝寺」

三浦市さんぽ「三浦海岸・十劫寺から清伝寺」

○「上宮田海防陣屋跡」(南下浦町上宮田3274)
三浦海岸駅前の南下浦市民センターの敷地内に「上宮田陣屋跡」があります。説明板によると、弘化4年(1847)徳川幕府が当時異国船渡来におびえて、急ぎ江戸湾防備に着手したとき、三浦半島の警備を命ぜられた彦根藩主井伊掃部頭直弼が、赴任に当たり上宮田に三浦郡・鎌倉郡の軍政の本拠を置いたところから「海防陣屋」と呼ばれました。浦賀千代ケ崎、鶴崎、千駄ケ崎、箒山、大浦山、剣崎、安房ケ崎、荒崎、八王子山(腰越)の9カ所に砲台を構築し、また、三崎の城山と原に分営を設けて警備にあたりました。嘉永6年(1853)に長州藩が交代し、さらに安政5年(1858)には熊本藩にかわり、佐倉藩を経て、その後浦賀奉公に移管されました。この20年間にわたって、領地の行政官庁もここにありました。明治維新の改革に献身した人々がこの海防陣屋にきていわれ、木戸考充は桂小五朗といったころの21歳、伊藤博文は俊輔といったころの16歳、共にこの海防陣屋に衛士として勤めていました。ことに伊藤博文の将来あるのは、この陣屋からとまでいわれています。

○「岩井口閻魔堂と岩船地蔵」(南下浦町上宮田3392)
三浦海岸交差点から南に海岸通りの一本西側の道路を行くと、「岩井口閻魔堂」(正覚院)があります。十劫寺の管理で、境内に庚申群、閻魔堂の右側に三浦ではきわめて珍しい「岩船地蔵」があります。大きな岩船に乗る地蔵坐像で台石に「石舩地蔵」とあり、造立年代は不明ですが、この地蔵は漁師が海難に合った時、救ったという伝説があります。

○「十劫寺」(南下浦町上宮田3527)
閻魔堂から南に向かうと「十劫寺」があります。開山は江戸芝西応寺の僧・厳譽。開基は地元上宮田の豪族・松原新左衛門。当初は真常寺と称しましたが、元和元年(1615)に松原氏の再建によって「十劫寺」と改めました。本尊は阿弥陀如来で、三浦不動尊の第8番目札所です。
【笹塚不動】
笹塚不動明王像は、昭和44年3月26日三浦市指定文化財に指定された彫刻です。もとは京急三浦海岸駅の近くの笹塚(字道場)という陣屋に祭られていたことから、この名で呼ばれるようになりました。明治時代の神仏分離の際、現在の十劫寺に移されました。室町時代の作品で、高さは76cm、膝張は63cmになります。寄木造、玉眼嵌入の坐像で、右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持っています。彩色は肉身のみ漆塗りで、左肩からかかる条帛(じょうはく)は、朱の地色に牡丹の唐草模様と金泥の極彩色が施され、絢爛たる昔をしのぶことができます。
後北条氏が三浦半島を支配していた頃、房州の里見義弘はしばしば三崎の地に攻撃をしています。永禄10年(1567)里見氏は水軍を率いて、菊名沖に来襲しました。この時、北条綱成は海上で風雨のために方向がわからず右往左往していました。これを見ていた松原新左衛門は船を出し、門灯を立てて北条軍を導いたため勝利を得ることができました。松原新左衛門はこの功によって士分に取り立てられました。里人と共に笹塚不動堂で神楽を奏し、その喜びを分かち合ったと伝えられています。
【マカセ漁師の墓】
参道右手に「マカセ漁師の墓」が6基あります。墓石には「万右衛門」「与四太郎」「惣右衛門」と、それぞれ俗名と没年が刻まれています。マカセ漁とは、マカセ網という大型の網を使って行う漁法のことです。江戸時代、マカセ漁というのは新しい漁法で、紀州雑賀地方に住む人々が各地に移住して広がっていきました。
【庚申塔群】
十劫寺の門前、道路反対側に9基の石塔があります。1基が六十六部塔で、8基が庚申塔です。その中に明治5年の造立の庚申塔があり、三浦半島では必ずリストアップされる特徴のある青面金剛で、腰に龍を巻き付け怒髪と忿怒相、そしてお互いにおせっかいをする三猿などが注目されています。
【十劫寺別院の庚申塔】
十劫寺の北東にある別院本堂前左手の民家脇に、庚申塔群があります。10基ほど石塔があり、地蔵1、不明2、庚申塔7基です。

○「白山神社」(南下浦町菊名149)
海岸通りのバス道路を南に向かうと、白山神社バス停から西に入ったところに「白山神社」があります。由緒書きによると、こちらの神社は菊名左衛門重氏の守護神で、はじめは元白山宮と称したそうです。重氏は三浦義同(道寸)の家臣とされる人物です。三浦一族は、台頭してきた北条早雲と対立し、三浦の地で討ち滅ぼされてしまいます。そのときに菊名一族も滅亡したため、神社は久しく荒廃したそうです。
【切妻造妻入形横穴古墳】
神社裏手に「切妻造妻入形横穴古墳」があります。奈良時代の横穴墓。天井部が切妻造風に仕上げられ、壁面には朱を施した痕跡が残っているといいます。
【飴屋踊り】
「菊名の飴屋踊り」は、毎年10月23日に菊名の白山神社例祭で奉納されてきた踊りです。
【白山神社下の庚申塔】
白山神社下の変型四叉路の神社と反対側の土手下路端に「庚申塔」があります。右の石塔に「菊名庄衛門建之」とあります。

○「法昌寺」(南下浦町菊名159)
白山神社の西に「法昌寺」があります。以前は潮客寺といいましたが、一時期、荒廃してしまいました。徳川家康が江戸入府すると、代官に任命された長谷川七左衛門長綱が、逗子の沼間にある海宝院の三世機宗を開山として再興し、その際に寺名を法昌寺と改めました。
【牛馬頭観音】
入口に「牛馬頭観音塔」があります。昭和3年の建立、角柱の文字塔で「牛馬頭観世音」と書かれています。馬頭観音と牛頭観音が合体して牛馬頭観世音となっており、牛と馬とを一緒に書いたものは珍しいです。
【観音菩薩坐像】
本尊は、行基作と伝えられている60cmの観音菩薩坐像です。寄木造りで、玉眼嵌入です。琴音磯にまつわる伝説が残っています。新井城主の三浦道寸義同がある日、家臣である菊名左衛門をともなっての猟の帰り道、この付近にさしかかると琴の音が聞こえてきました。琴の音をたどって進んでいくと、琴の音だと思ったのは海中から湧き出る清水の響きだったとのこと。その音に聞き入っていると、そこから観音菩薩像が浮き上がり、これを祀ったのが法昌寺だとのことです。琴音磯の地名の由来ともなっています。
【磨崖五輪塔群(仲里古墳群)】
寺の墓地奥に大きく突き出た崖下に浅いやぐら5mぐらいのところに、9基の磨崖に浮彫にされていて五輪塔と舟形光背が珍しいです。横穴古墳を再利用した三浦一族のお墓で、複数の五輪塔が並んでいます。この古墳群は、仲里古墳群とも呼ばれています。

○「永楽寺」(南下浦町菊名312)
法昌寺の南西に「永楽寺」があります。横須賀市津久井に元久元年(1204)創建の法蔵院がありましたが、弘治・永禄の頃(1556〜58年)に房総半島を支配していた里見氏が三浦半島を侵略し、その際に戦場となって法蔵院は焼失しました。里見氏は三浦城を攻略できず、法蔵院の仏像や梵鐘などを持ち帰りましたが、帰路の海が荒れたため仏像を海に投げ捨てました。その仏像が三浦市菊名に流れ着き、無事に法蔵院へと帰ることができましたが、その縁で菊名に檀家ができ、その利便を図るために永楽寺が建立されました。元は「堂ヶ上」と呼ばれる山上に存在していましたが、文禄元年(1592)現在地に移転。本尊・阿弥陀如来像は行基作、不動明王像は運慶作といいます。参道沿いに、六地蔵、疣取(いぼとり)地蔵やポックリ地蔵があります。
【永楽寺の庚申塔】
永楽寺の参道左側に庚申塔が3基並んでいます。安永8年(1779)9月銘の合掌六手青面金剛、享保16年(1731)銘の剣持六手青面金剛、延宝5年(1675)銘の合掌六手青面金剛です。
【永楽寺奥の庚申塔】
永楽寺から引橋に抜ける山道路端右に「庚申塔」が2基あります。人家が絶えてから100mぐらい登ったところです。
【永楽寺奥台地の庚申塔】
永楽寺からまっすぐに山へ上がると、やがて台地の上に出ます。登りきってすぐの畑の端に「庚申塔」が3基あります。

○「水間様の霊水」(南下浦町菊名1227)
法昌寺まで戻りその先で右に入って南に向かうと、田園風景の広がるキャベツ畑が続きその奥の民家の手前左手に、菊名の湧水「水間様の霊水」があります。地元では水間様と呼ばれ親しまれている「水間神社」の、小さな祠の下方から湧出しており、この湧水は菊名川の源流になります。昔からこの水を飲むと、母乳の出がよくなる水として言い伝えられています。なお伝説によると、三浦氏の武将・菊名左衛門重氏の乳母の母乳の出が悪く、夢のお告げがあり、この湧水を飲んだところ母乳の出がよくなったそうです。

○「菊名左衛門重氏の墓」(南下浦町菊名)
もとの道を戻ると、正面に丘上の木々の茂みが見えてきます。この茂みに向かって上って行くと、大きな石碑とその後ろに小さな「菊名左衛門重氏の墓」があります。ちょうど、南下浦小学校の西の丘上になります。この付近一帯は、新井城主の三浦義同の家臣・菊名左衛門重氏が治めており、「浜御殿」といわれ菊名氏が別荘を構えていました。重氏は武勇の勝れた人であり、同時によく領内の治世を行い領民からその徳を慕われていました。そのころ伊豆に興った北条氏との戦いは、次第に激しくなり、永正のある年、たまたま義同の幼児虎王丸が敵の手にとらわれたので、重氏はその奪還をはかって、僅かな手兵とともに敵中に入り、大いに奮戦したが利あらず遂にことごとく討ち死にして果てました。後年、重氏の武勇と生前の遺徳をたたえる村民が、この墓からほど近い菊名の海岸近くに社を建てこれを祀り「浜の宮」とよんでいましたが、一族のものと思われる数基の五輪塔など、大正11年改めて菊名が見渡せるこの地に移されました。

○「小浜坂下の庚申塔」(南下浦町金田)
菊名左衛門重氏の墓から東に南下浦小学校へと下りバス道路に出ます。南に向かうと、金田から松輪に登る小浜坂下国道沿いに石塔が6基あります。庚申塔が2基、地蔵2基、六十六部塔1基、不明1基です。

○「円福寺」(南下浦町金田258)
なおも海岸沿いに南に向かい、西に入って行くと三浦七福神の「円福寺」があります。天文17年(1548)鎌倉光明寺の伝設大和尚を招いて開山とし、海岸にあった地蔵堂を現在の地に移し「円福寺」と称しました。
【三浦七福神・金光恵比寿】
この寺の恵比須尊は「金光(こんこう)恵比須」と呼ばれ、その昔、金田の海で光り輝く恵比須像をひろった漁師が大漁のしるしとして喜び、庵を建てて祀ったところ、旅の僧が現れ「この恵比須像と地蔵尊とを祀ればこの里の栄え量るることなし」と告げたことから寺を建て、恵比須像と地蔵尊を祀ったといいます。
【小型六地蔵】
境内に入ってすぐに、古くて小型の六地蔵があり姿と持ち物が面白いです。その奥には別に新しい六地蔵もありますが、古い方の六地蔵は舟形墓石浮彫り地蔵で、新しい六地蔵は延命地蔵っぽいですが別石六地蔵のようです。

○「走湯神社」(南下浦町金田373)
円福寺の南西に「走湯(そうとう)神社」があります。地元では「金田の権現様」と呼ばれています。寛治元年(1087)、伊豆国加茂の金田走湯神社から分祀されました。
【三浦館跡】
鎌倉時代初期には、このあたりに金田小太夫頼次の「三浦館」があったといわれています。頼次は上総の豪族上総介広常の弟で、上総金田荘(千葉県長生郡)の領主とされる武将です。上総氏との関係強化を図りたい三浦義明は、頼次を娘婿としてこの地に住まわせたとされています。源頼朝の挙兵の際には、三浦一族とともに石橋山の合戦に加勢しますが、酒匂川の氾濫により渡河できず撤退することになります。その後も頼次は頼朝に従いますが、梶原景時による広常誅殺のときに討たれた(蟄居ののち病死とも)とされています。
【走湯神社のイチョウ】
境内に堂々とそびえる均整のとれた樹形の巨木。樹高32.0m。幹周4.38m。ほか1本。樹齢200年くらいかやや小振り。
【庚申塔群】
神社の前の鳥居脇に6基の庚申塔群があります。文政7年(1824)銘の青面金剛、明治35年の文字庚申塔、寛政5年(1793)銘の庚申供養塔、寛政12年(1800)銘の青面金剛などが並んでいます。

○「清伝寺」(南下浦町金田963)
走湯神社の南東に「清伝寺」があります。開山は建武年間(1334〜35年)、桃源宗悟禅師の建立とされています。本尊は聖観世音菩薩。
【カッパの証文伝説】
清伝寺には、カッパの証文の伝説が残されています。寺の脇を流れている川は「すずの川」です。昔はこのあたりまで潮がさかのぼり、川でスズキ(鱸)が釣れたのですずき川と呼ばれていましたが、いつしかすずの川と呼ばれるようになりました。説明板に次の説明があります。
《昔はこの付近は深い森に囲まれた寂しいところで、すずの川にはカッパが住んでいました。夜となく昼となく、里人をだますいたずら好きのカッパで困っていました。ある日、農夫が馬を引いて川に下り、杭に手綱をつないで馬を洗い始めると、いつの間にか手綱が解けていました。結びなおしても解けてしまうので、カッパのいたずらだと気が付き、杭を固く縛ってカッパを捕まえてしまいました。普段からいたずらに困っていた里人たちは、よってたかってカッパを懲らしめていると、騒ぎを聞きつけてやって来た住職が見兼ねて止めに入り、カッパを助けてあげました。その代わり、人をだますような悪さをしないように良く諭したとのことです。非を悔いたカッパは、詫び証文を書いたといわれています。》
伝説の一端を見ても、昔から現在に至るまで三浦半島は隆起しているというのがわかります。

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