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2015年11月04日06:43

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三浦市さんぽ「初声町和田・光照寺から和田城跡」

三浦市さんぽ「初声町和田・光照寺から和田城跡」

○「宝徳寺」(初声町三戸2556)
京急三崎口駅から南に歩き右折して三戸海岸に向かうと、「宝徳寺」があります。
【三戸十郎友澄の墓】
宝徳寺の東方の小高い丘(上部は畑地)、有線放送のスピーカーを目印にして上って行くと「三戸十郎友澄の墓」があります。三戸十郎友澄は、北村包直著『三浦大介及び 三浦党』には、「兄平九郎胤義の密書に接し、内田次郎・荘司三郎・ 海戸五郎の三士を従えて上洛し、胤義と共に勤王軍に属して戦死した。三士は友澄の首 級を携え、郷里に帰り葬った」との記述があり、三浦介義澄の子で承久の乱に戦死しています。

○「光照寺(かめくり観音)」(初声町三戸2473)
宝徳寺の南に「光照寺」があります。永享2年(1430)の創建で本尊は阿弥陀如来。三浦三十三観音霊場の「お手引観音」がお祀りされています。相模風土記に観音堂本尊、行基作、長さ一尺八寸五分とあります。寺伝によれば、この観音様は村人(進藤氏)の夢中のお告げにより土の中に埋もれていた観音様を掘り出し、光明寺の近くに観音堂を建てお祀りしたとされます。その後、堂の屋根の上に水瓶をさかさに乗せてあったことから瓶庫裏(かめくり)観音ともよばれていました。観音様の誓願には「子宝に恵まれ、万民の病苦厄難を除き、富貴をあたえ給う」とある。豊作と大漁をもたらす別名「いなだ観音」「大漁観音」とも呼ばれています。また、三戸地域で行われるお盆行事「お精霊流し」は、県の無形民族文化財に指定されています。
【光照寺のスダジイ】
光照寺のスダジイは、樹齢500年以上といわれる古木で、樹高8m、幹周り5m。
【光照寺南隣の庚申塔群】
光照寺に隣接した民家前に、庚申塔群があります。石塔が全部で17基あり、庚申塔が11基、六十六部塔が4基、道標1基、不明1基です。

○「霊川寺(いぼとり地蔵)」(初声町三戸1117)
光照寺の北に「霊川寺」があります。寺の入口の坂を登ると、すぐ本堂が現れ右手に「いぼとり地蔵」があります。
【霊川寺入口の庚申塔】
霊川寺の入口右手丘の上と、入口右の崖に庚申塔があります。

○「上諏訪神社」(初声町三戸1091)
霊川寺の北に「上諏訪神社」があります。祭神は建御名方命 (たけみなかたのみこと)で、元寇で神風を起こした伝承もあります。南下浦町菊名の白山神社の兼務社で、アニメなどのロケ地になっています。

○「福泉寺」(初声町三戸1020)
上諏訪神社から北に向かい、左折すると「福泉寺」があります。創建は承安5年(1175)、本尊は阿弥陀如来。虫魚を弔った「一切亡虫魚墓」と刻まれた墓は珍しいです。
【福泉寺入口の庚申塔】
福泉寺入口の右側に庚申塔があります。周辺に六十六部塔や六地蔵などがありますが、庚申塔は1基だけです。

○「黒崎の鼻」(初声町下宮田)
福泉寺から海岸沿い北西に向かうと、黒崎海岸の「黒崎の鼻」があります。ここは三浦半島スポットでもかなりマイナーな部類で、そのぶん景勝地といえそうな場所で、ちょっぴり「最果て感」が味わえます。黒崎の鼻一帯は、海食台が海へ伸び初声層の岩場が続いており、天城伊豆、箱根富士丹沢の雄大な景観が楽しめます。
【飛行場跡地】
黒崎の鼻から東方の三崎口駅付近まで、キャベツ畑が広がっています。この農地には、戦争末期に飛行場が建設されていたといいます。

○「延寿寺(三浦七福神)」(初声町下宮田3403)
飛行場跡地の農地の途中から急な坂道を北に下って行くと、三浦七福神の一つ「延寿寺」があります。説明板によると、日蓮上人門弟の九老僧の一人・大善阿阿闍梨日範上人の開基で、延慶3年(1310)3月に建立されました。日範上人は120余才の長寿で、元応2年7月22日に亡くなりました。山号の寿福山は、日範上人の長寿を寿ぎまして名付けられました。本尊は釈尊で、日蓮上人自作の開運鬼子母尊神を祀り、立正安国法華経弘通の道場として700年以上続く名刹です。
【日範上人お手植えの松】
本堂前に日範上人お手植えの松があり、現在は枯れていますがとても大切にされています。松以外にも、大きなイチョウや大きなナンジャモンジャの木などが植栽されています。
【三浦七福神・寿福大黒天】
三浦七福神の寿福大黒天は、日範上人の門弟・日龍上人が一刀三礼の儀をもって彫ったもので、甲子(きのえね)の日が縁日で、富貴、長寿、特に豊かな食生活が約束されるというめでたい大黒天です。

○「若宮神社」(初声町下宮田3726)
延寿寺から東に向かうと、バス道路の先、初声小学校の南隣に「若宮神社」があります。かつては、入り江の孤島だったといわれている神社です。
【伊右衛門の狛犬】
安政5年(1858)に建てられた狛犬があり、江戸両子獅子タイプで、右手で子供の狛犬を踏み潰していますが、子供の狛犬はなんだかいやがっている表情がカワイイです。高さ1.7mの牡丹と獅子のレリーフ台座の上に81cmの大きさで、何もない境内の中では圧倒的なデカさと迫力を感じさせてくれます。「佐島 石工 伊右衛門」とあり、この大きさからくる全体の印象は、伊右衛門狛犬の最高作といって良いかも知れません。三浦半島の石工では、東の源右衛門に対して西の伊右衛門といわれています。伊右衛門顔と呼ばれていますが、この顔・頭・あごひげなど、伊右衛門狛犬は全て同じで一目見てすぐに分かります。
【横穴】
本堂裏手に謎の横穴があります。もしかしたら横穴古墳ではないかと思われます。

○「円徳寺」(初声町和田3493)
バス道路を北に向かい三浦臨海高校の北側、矢作入口バス停手前を左折して、長浜海岸に向かうと「円徳寺」があります。開山は大善院日範上人で、永仁2年(1294)この地に建立されました。その後、元禄の大地震のとき本堂は流され、享保6年(1721)再建されましたが、大正の大地震に再度倒され昭和3年に新しく竣工されました。日範上人は法華経の布教に大いに務めましたが、その布教場の一つ「妙法経窟」が寺の近くにあります。入口に新しい六地蔵がならんでいます。
【赤辺稲荷】
本堂の左側、住職宅の前を横切っていくと赤辺稲荷があり、次の説明があります。
《寺内に祀られている赤辺稲荷にまつわる話が伝えられています。昔、里の漁師が、こざらし網(夜鰯を捕る網)に出かけましたが、 折り悪く風が出て大時化となり、家族や里人は心配して船の無事をこの赤辺稲荷に夜を徹して祈り続けました。すると、明朝あらしが静まった浜へ全員が無事に戻ったということです。里人たちは、赤辺稲荷の無限の加護を信じ一層信仰するようになりました。》
【妙法経窟】
港に出て長浜海岸に向かうと小さな洞窟「妙法経窟」があり、次の説明があります。
《正応3年(1290)6月、拾度700年前に六善院日範聖人は和田村の磯、現在のこの地に来てみると相模湾の行方に伊豆半島が遠望できました。日範聖人が日蓮大聖人の弟子となってまもなく大聖人は囚われの身となり、伊豆に流されました。この地より伊豆半島を眺めつつ居られました。後にこの穴に居を構えて3年の海水の荒行を始め、毎日の読経説法によりて永仁2年(1294)日蓮大聖人13回忌の折に近浦山円徳寺が創立されました。後に各地に多くの寺を開き120歳で示寂されました。》

○「円徳寺近くの庚申塔群」(初声町和田)
円徳寺の東側の道を上って行くと、キャベツ・スイカ畑の台地に出ます。左奥に大きな建物「三浦ふれあいの村」が見えます。道なりに進み、右に下って行くと曲がり角に4基の庚申塔群があります。

○「和田城跡」(初声町和田3037)
もとの農地(台地)に戻り、三浦ふれあいの村まで歩き北に向かうと、平塚農業高校初声分校前の南側、道路沿いの民家前に「和田城址の碑」と説明板があります。和田義盛の塚といわれていますが、定かではありません。説明板によると、和田小太郎義盛は16歳の秋、父親の杉本義宗の死を境にして鎌倉の杉本城から和田に移り住みました。このあたりは、和田義盛の居館があったところになります。和田義盛は和田を生涯の根拠地と定め、合戦においてもこの地から多くの兵士が出陣し兵糧が戦地へ送られました。肥沃な穀倉地帯を背景に隆盛を誇り、鎌倉幕府初期の最有力御家人であった和田氏ですが、建保元年(1213)の和田の乱(建保の乱)で北条義時に討たれて由比ケ浜において自害し滅亡しました。和田義盛67歳。平塚農業高校初声分校の周囲には空掘や土塁を巡らし、中世としては大きな城跡でした。現在では和田館はその跡をほとんどとどめていませんが、この地を中心として、木戸脇、唐池、出口、赤羽根、矢作など、当時の城址だったと思われる地名が残されています。
【己御前】
和田館には、木曽義仲の妾・己御前が和田義盛に預けられ、ここで余生を送ったと伝えられています。伝説や口伝でしかありませんが、三浦半島には巴御前にまつわる史跡が数ヶ所にあります。

○「和田義盛旧里碑」(初声町和田2590)
和田城跡の前の道路を北東に向かい、右折して住宅前から急坂を下って行くと、国道和田交差点から西方60mのところにある天王社の境内に「和田義盛旧里碑」があります。大正10年10月3日、三浦氏の末裔・三浦英太郎男爵が和田義盛を偲んで建てた石碑です。このあたりから、大泉寺、安楽寺跡あたりを含めた一帯が、和田義盛が館を構えていたところと伝えられています。丘陵の多い三浦半島では最大の平地であり、衣笠城の食料庫として水田を開拓し米などの食料を得ていたといいます。当時は、三浦半島のほぼ全域が三浦一族の支配下にあったので、戦となれば、本拠地の衣笠城に集まることになっていました。ちなみに旧小字名でも、この場所を「和田ノ里」といいます。
【天王社(八雲神社)】
石碑のある「天王社」は、別名を「八雲神社」とも呼ばれています。祭神は素盛鳴尊(すさのおのみこと)。貞享4年(1687)、藤原朝臣の大井甚五左衛門の勧請と伝えられています。社殿も小さく境内も非常に狭いのですが、地元の方によって綺麗に管理されています。
【和田合戦と義盛】
建暦3年(1213)5月2日、和田義盛は北条義時打倒の兵を挙げました。ところが、起請文まで書いて味方することを約束した三浦義村は義盛を裏切り、義盛の挙兵を義時に伝えました。義盛への味方を約束していた武蔵国の横山党の到着も遅れている中、義盛は自軍を三手に分け、それぞれ義時邸・大倉御所・大江広元邸を襲撃させました。将軍御所を攻められた源実朝は、法華堂に避難しています。この時の和田軍は、総勢150騎あまりだったといいます。義盛の三男朝比奈義秀の活躍もあって、和田勢は大いに奮戦しましたが、次第に北条軍に押され由比ヶ浜に退くこととなります。翌早朝、頼みの横山党3000騎が合流したことによって一時盛り返すものの、次々に新手を繰り出す北条軍の前に疲弊し、義盛の子義直が討ち取られました。再び由比ヶ浜に退いた義盛は、江戸義範の軍に討たれ最期を遂げています。

○「大泉寺」(初声町和田2564)
和田交差点から北に向かうと、右手に「大泉寺」があります。応仁元年(1467)、日泉上人の開山と伝えられています。門の右側には、寛政5年(1793)に建てられた大きな題目塔が建っています。これは当時の住職の日静上人の代に寺小屋を開いており、その弟子たちが亡き日静上人を顕彰して立てた筆子塚として建てられたものです。墓地には、入江新田の開拓工事を行った山田惣左衛門父子の墓があります。
【安楽寺跡】
大泉寺の北西に「安楽寺跡」があります。久しく無住でしたが、国道の拡張のため昭和18年廃寺となりました。薬師堂にあった本尊の薬師三尊は今、天養院に祀られています。石段脇の石仏・石塔など、廃寺となった庫裡の一部が在りし日の安楽寺の面影を伝えています。安楽寺は、和田義盛の館の鬼門(北東)除けに建てられた寺ということから、館は西南の方角に建てられていたと考えられます。この安楽寺跡と道路をへだて右前方に、天養院があります。

○「神明白旗神社」(初声町和田1746)
大泉寺の南側の道を左折して東に入って行くと、「神明白旗神社」があります。祭神は天照大神と和田義盛。元禄12年(1699)に矢作に造られた神明社と合祀され、神明白旗神社と呼ばれるようになりました。『相模風土記』によれば、ご神体は和田義盛の銅製の肖像で、本地仏は和田党93騎の守護仏ですが、現在では損傷してしまいわずか8体のみが残されています。説明板に次の説明があります。
《神明社は後に白旗神社に合祀されたもので、神明を冠につけこれを神明白旗神社と呼んでいる。この神社の由来としては、鎌倉幕府侍所の別当であった和田義盛が北條討伐の兵を挙げたが利あらず破れ、鎌倉の和田塚に一族ことごとく自刃したが、義盛の善政をしのび、弘長3年(1263)和田の郷氏がこの地に社殿を設け白旗神社と称して祭祀をあつくしてきたものである。また、白旗の名を得たのは、和田義盛が文治2年(1186)平家討伐に出陣して大勝を収め、城内を開放して紅白の幟を建て場内鎮護の八幡社に戦捷を報告したことに始まる。領民を交えた酒席で戦勝の舞「初声」を舞ったとされ、初声町の名もそこから始まったといわれている。相模風土記によれば神体は銅製の和田義盛像で、本地仏は和田党93騎の守護仏だったが今では損傷してわずか八体のみとされている。なおここの境内は和田、入江新田、下宮田の田園風景が一望に眺められる景勝地で、社殿は神明造りの社殿に拝殿、幣殿が設けられている。》
【心臓破りの急な階段】
急な約50段の階段を登れば、境内からは、和田、入江新田、下宮田の田園風景が一望に眺められる景勝の地です。この急な階段を登らずとも、左横からコンクリートの坂道がありそちらを利用できます。
【庚申塔群】
この神社で目を引くのは、なんといっても多数ならんだ庚申塔群です。階段下の鳥居の左側に15基、彫られている主尊も違い文字だけのものもあり、猿も1匹のものと3匹のものとがあります。もちろん塔の形そのものも多種多様です。
【庄司川(精進川)】
明神白旗神社の東北方向の田んぼの真中に、庄司川(精進川ともいう)があります。義盛が近くの延命地蔵尊(のち五劫寺に安置)を深く信仰し、それを参詣するとき必ずこの川の水で身を清めたといいます。川には、わくり井戸からの湧水が注いでいました。

○「天養院(身代わり薬師)」(初声町和田1669)
大泉寺まで戻り先の右手の坂道を上って行くと、台地の上の住宅地の前に「天養院」があります。本堂に向かって左側の厨子の中に本尊の薬師如来像があり、この薬師像は義盛の「身代わり薬師」といわれています。和田合戦で負傷した義盛は、痛さを感じずに大いに戦うことができました。そのとき、この薬師像の顔から胸に傷ができ、血潮が流れていたと伝えられています。薬師像は木造一木造で、彫眼、平安時代の作です。薬師如来は74.5cm、脇時の日光菩薩は110.5cm、月光菩薩は112.5cmです。この像は、もともとは和田義盛邸宅の鬼門守護に建立された安楽寺の本尊だったものを、昭和18年に天養院に移されました。薬師三尊を守るように、室町時代の十二神将があります。像高62cmの寄木造で、玉眼嵌入の立像です。ちなみに安楽寺は国道拡張工事のため、昭和18年に廃寺となってしまいました。
建暦3年(1213)2月、信濃の泉親衡が二代将軍源頼家の遺児千手を担いで謀叛を企てました(泉親衡の乱)。その中に、義盛の息子の義直・義重そして甥の胤長が加わっていたことが判明し、身柄が拘束されました。3月8日義盛は三代将軍源実朝に直接面会し、息子たちの赦免を願い出ました。翌日、実朝はこれまでの功に免じて息子の罪を許しましたが、甥の胤長については謀叛の張本として許されませんでした。胤長は、一族の面前で縛られたまま二階堂行村に預けられ、胤長の所領も没収されました。全てが北条義時の義盛に対する挑発でした。5月2日、面目を潰された義盛は義時打倒の兵を挙げます(和田の乱)。翌日、優勢に戦いを続けた義盛でしたが、一族の三浦義村の裏切りもあって、由比ヶ浜で最期を遂げました。
【和田の里の庚申塔群】
天養院からバス道路まで戻り、道路反対側の道を上って西に向かうと、土手沿いの一段高くなった台上に草木に埋もれるようにして庚申塔

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