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2015年10月28日06:58

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山頭火の日記(昭和15年2月11日〜、松山日記)

山頭火の日記(昭和15年2月11日〜、松山日記)

『松山日記』
   “同塵居” 誓詞に代へて
  我昔所造諸悪業
  皆由無始貪瞋痴
  従身語意之所生
  一切我今皆懺悔

   三帰礼
 自から仏に帰依し奉る  当に願はくは衆生と共に
 大道を体解して       無上意を発さん
 自から法に帰依し奉る  当に願はくは衆生と共に
 深く経蔵に入りて      智慧海の如くならん
 自から僧に帰依し奉る  当に願はくは衆生と共に
 大衆を統理して       一切無礙ならん
             願以此功徳 普及於一切
             我等与衆生 皆共成仏道

 紀元二千六百年元日

 輝かしい新世紀の黎明。――
 午前九時、聖寿万歳斉唱、黙祷。――
 新年誓詞――
  “ここに昭和十五年の元旦を迎へ恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉り、いよいよ肇国の精神を顕揚
   し、強力日本を建設して新東亜建設の聖業完遂に邁進し、もつて紀元二千六百年を光輝あ
   る年たらしめんことを堅くお誓ひ申します。”

二月十一日 曇――雨。
紀元節、新らしい世紀を意識し把握し体得せよ、殆んど徹夜だつた、句稿整理。午前、道後温泉入浴、護国神社参拝、午後、一洵兄と同道して月村君を訪ね、三人打連れて漫歩漫談、降りだしたので急いで帰つた。今日も飲みすぎだつた、酒を慎しむべし、己を省みるべし、シヨウチユウよ、さよなら!(消極的に日本酒だけを味ふべし) 落ちついて雨ふる、雨ふりて落ちつく。……徹夜執筆。――

【松山日記】
『松山日記』には、昭和15年2月11日から昭和15年8月2日までの日記が収載されています。


三月十二日 晴。
朝、ポストまで、運よくはぎ一袋。お寺の女性が洗濯して赤い布をひらひらさせる、お寺にも春が来たかな! ――だんだん食べるものがなくなる――寒いな、心細いな。――夕はあるだけの御飯を炊いて食べた、胡麻塩をふりかけて、――それでも数碗けろりと平らげるのだから、私の胃袋は強い々々! 友達への消息に――伊予路の春は日にましうつくしくなります、私もこちらへ移つて来てから、おかげでしごくのんきに暮らせて、今までのやうに好んで苦しむやうな癖がだんだん矯められました。……
 おちついて死ねさうな草萠ゆる
和尚さん来談、とりとめもない四方山話をしたが、予想してゐたよりも、文芸に理解のある新らしい老人だつた。午後は松山散策、――立花から郊外へ(朱鱗洞君の墓を展した、昨秋の深更まゐつたときは酔中で礼を失したことが多く済まないと心が咎めてゐたが、これでほつと安心した)。おだやかなねむり、千金万金にも代へがたいねむりだつた。

【おちついて死ねさうな草萠ゆる】
この日の日記に、「おちついて死ねさうな草萠ゆる」の有名な句があります。一草庵での作。山頭火は、死期が間近いことをうすうす感じていたかもしれません。一草庵跡に、この句碑があります。


五月廿七日 晴。
早起出立、中国九州の旅へ、――九時の汽船で広島へ向ふ。身心憂欝、おちついてはゐるけれど、――この旅はいはば私の逃避行である、――私は死んでも死にきれない境地を彷徨してゐるのだ。海上平穏、一時宇品着、電車で局にどんこ和尚を訪ふ、宅で泊めて貰ふ、よい風呂にはいりおいしい夕飯をいただく、ああどんこ和尚、どんこ和尚の家庭、しづかであたたかなるかな、私もくつろいでしんみりした。夜、後藤さん来訪、三人でしめやかに話した。罰あたりの私はおそくまで睡れなかつた。

【最後の旅路】
この日の日記に、「早起出立、中国九州の旅へ、――九時の汽船で広島へ向ふ」とあります。これまで世話になった俳友知人に出来上がった句集を呈上し、惜別の情にしたろうと、出かけることにしました。


五月廿八日 曇。
早起、一雨ほしいなと誰もが希ふ。いつもの飲みすぎ食べすぎで多少の腹痛と下痢、自粛しよう、しなければならない。朝、奥さんは道後へ、私は山口へ。――己斐までバスと電車、賃金七銭、何といふ安さ、もつたいないと思ふ、折よく九時の列車に乗れた。バスの中ではうるさかつた、汽車の中ではさうざうしかつた。十二時、徳山下車、白船居訪問、ここでもよばれる、旧友のなつかしさ。三時の汽車で山口へ、四時着、Y君を訪ねる、M君を招き、三人連れで湯田の或る料亭で夕飯を食べる、飲みたいだけ飲み、しやべりたいだけしやべつた、Y君の沈黙とM君の饒舌とは変な対照だつた。夜ふけて帰山、私はY君の厄介になつた、おそくまでいろいろ話した。……
 曇れば波立つ行く春の海の憂欝
 島をばらまいて海は夏めく
 いちにち日向でひとりの仕事
   柊屋(澄太居)
 よい眼ざめの雀のおしやべり
 風は初夏の、さつさうとしてあるけ
 むくむく盛りあがる若葉匂ふなり
 初夏の風のひかりて渦潮の
   自嘲
 六十にして落ちつけないこころ海をわたる

【六十にして落ちつけないこころ海をわたる】
この日の日記にある、「六十にして落ちつけないこころ海をわたる」の句は自嘲の句であり、故郷へ向かうのが今だに「落ちつけない」というのです。結局晩年に至っても、故郷へ近づくことに戸惑う思いを隠せなかった山頭火にとって、対岸の松山から故郷を思うことが、かろうじて落ちつけたのではないでしょうか。

【一代句集『草木塔』出版】
4月28日、山頭火の一代句集『草木塔』が出版されました。部数700部。山頭火は、この記念塔あるいは墓標というべき句集『草木塔』を携えて、5月27日から6月3日まで、中国・九州地方の旅に出ています。これまで世話になった俳友知人にこの句集を呈上し、惜別の情にしたろうというのです。


六月四日 晴。
休養。夏を感じる。買物に出かけて、そしてほろほろぼろぼろ。
 はだかへ木の実ぽつとり

【はだかへ木の実ぽつとり】
この日の日記に、「はだかへ木の実ぽつとり」の句があります。また、山頭火の晩年の句に「いつ死ぬる木の実は播いておく」があります。死の訪れをそう遠くないものと予感したものにとって、木の実を播(ま)くということは何を意味するものでしょうか。自分の播いた木の実が成長し、この自然の中にあるということ。それは、自然の大きな営みにほんのささやかではありますが、一つのたしかな賑わいを加えることです。山頭火は、それだけのために木の実を播いたのです。また、いつ死ねる句は作っておく-----。それが、ほんとうの句をつくるということなのだ、と山頭火はいっています。


七月二日 晴。
けさも早起、おとなりの時計が五つ鳴つた。身辺整理、捨てられるだけ捨てる。どうやら梅雨も早目に上つたらしい、暑くなつた、真夏真昼の感じがあつた。夕方から一洵老徃訪。
 “あるときは王者のこころ
  あるときは乞食のこころ
  生きがたく生く”


八月一日 晴。
興亜奉公日、その一週年記念日。酒を飲め、飲まずにはゐられないならば、――酒に飲まれるな、酒を飲むならば。――暗欝、自責の苦悩に転々する、終日黙々として謹慎する。
 もくもく蚊帳のうちひとり食くふ
この苦悩は私のみが知つてゐる、それを解消するのは私だけである。かなしいかな、ああ、さびしいかな。

【酒びたり】
この日の日記に、「酒を飲め、飲まずにはゐられないならば、――酒に飲まれるな、酒を飲むならば。――暗欝、自責の苦悩に転々する、終日黙々として謹慎する」とあります。九州地方から帰庵してから、気持ちの上でも整理がついて平穏な日々をすごしています。山頭火は、死期が間近いことをうすうす感じていたのかもしれません。ですが、悟り澄ました庵住というのではなく、酒が入れは乱れたりもしています。


八月二日 曇。
身心やや軽く。――B亭の妻君来庵、掛取也、今更のやうに今春の悪夢を反省させられる。終日黙坐、麦ばかりの御飯を少々戴いて。あるがままに受け入れて、なるやうに任しきらう。事にこだはるな、物にとどこほるな、自己に侫るな、他己に頼るな。
 “私は旧生活体制を清算する。そして、私は私の新生活体制をうち立てる。
  そこで、改巻する。――”
   (八月三日朝)
○一遍上人(證誠大師)
┌道後、宝厳寺   古塚や恋のさめたる柳散る  子規
└内子、願成寺
○城北寺町
 寒月や石塔のかげ松のかげ  子規
 黄鶴一度去不復返 白雲千載空悠々  (李白)

【第七句集『鴉』刊行】
山頭火は、昭和15年7月25日に第七句集『鴉』を刊行しています。「後ろ書き」に次のようにあります。
「三年ぶりに句稿(昭和十三年七月―十四年九月)を整理して七十二句ほど拾ひあげた。所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。  (昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて 山頭火)」

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