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2015年09月21日17:44

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『反逆のブッダ〜光明を得ることと反逆性』

Q:反逆者と光明を得た人との違いは何ですか? 光明を得ていなくても、真の反逆者であることは可能でしょうか?

OSHO:光明を得ていなくても、反逆者であることは可能だ。また反逆者ではないのだが光明を得ている、ということもありうる。だが、どちらも中途半端だ。何かが欠けている。何かごく本質的なものが。それはほとんど死体のようなもので――魂が失われている。

 光明を得ていない反逆者は、盲目であり、無意識のなか、暗闇のなかに生きている。彼は何が正しく、何が正しくないのかを知らない――彼にはヴィジョンの明晰さがない。彼は新しい人間の誕生のために、ほかの人々のハートを開け放つことができない――彼自身がまだ生まれていないのだ。彼の反逆性は、彼の頭のなかのある種の思考でしかない。

 彼はひとりの革命的な思想家、ひとりの哲学者かもしれないが、何がこの夜を終わらせるのか、どうすれば私たちは夜明けをもたらすことができるのかを、正確には知らない……どのように太陽は昇るのか、どのように小鳥たちは再びさえずるのか、どのように花々が開くのかを。だが、彼は夢想し、考えることならできる。私たちの過去には反逆者、偉大な反逆者であると認められていた多くの哲学者たちが存在した。しかし彼らからは、一貫性がなく、非科学的な、非実用的で現実に変えることのできない、いくつかの美しい思想の断片以外、何ひとつ生まれてこなかった。

 あなたがたも、哲学者についての定義を聞いたことがあるにちがいない――哲学者とは、暗い夜に、明かりのない家で、誰も見たことのない黒猫を探している盲目の男のことだ。だが、困ったことに問題はそこで終わってくれない――なぜなら、黒猫を見つけたと言う哲学者がたくさんいるからだ! 彼らはその黒猫を描写した。ほかにはだれもそれを見たことがないのだから、彼らの描写がまちがっていると言うことはあなたにはできない。彼らはいかなる証拠も示せないかもしれないが、それはあなたにしても同じことだ! それゆえに、何であれ、こうした盲目の哲学者たちが言いつづけていることは、反論されることのないまま受け容れられてしまう。

 そして、それらが反論されないのには別の理由もある――それは、体制がこうした反逆者たちと、その反逆的な思想のことをまったく心配していないからだ。彼らは、そうした思想がシャボン玉以外の何ものでもないことを完璧に承知している。これらの反逆者たちは、深い眠りのなかでただただおしゃべりをしているだけだ。

 ミックとジョーは、農場主にさんざんもてなしを受け、イタリアの“ぶどう園ツアー”から家に帰るところだった。
 「ミック、そろそろ町かい?」とジョーが尋ねた。
 「ああ」ミックは答えた。「きっとそうさ、跳ね飛ばす人の数が増えたからな」
 「だったら、ゆっくり運転しろよ」とジョー。
 「ゆっくり運転しろだって、何に言ってんだい?」ミックは言った。「運転してるのはおまえだぜ」

 光明を得ていない反逆者は、盲目の反逆者だ――盲目であるばかりでなく、酔っぱらってもいる――そして、彼の反逆性は一種の反動だ。それが「反逆者」ということばの元々の意味だ――何かに反対して闘うこと、抵抗すること。彼は何かがまちがっていること、何かが破壊されなければならないことは理解できる――自分の生は自由ではないから、きっと両足には鎖がつながれているはずだし、両手には手錠がかけられているにちがいない。だからそれらは破壊されねばならない、と。彼は自分を解き放たなければならない。だが、そういったすべては憶測でしかない。

 ひとつだけ確かなことがある――それは彼が惨めさを知っているということ、苦しみを知っているということだ。彼は自分の人間性がほとんど動物と同じレベルにまでおとしめられているのを、自分の誇りが傷つけられているのを、自分の尊厳が完全に抹殺されているのを知っている。彼は少なくとも自分から奪い去られているものが何であるかに気づいているから、それに対抗して闘いをはじめる。彼の反逆性は反動であり、否定的だ。彼は何かに“反対して”闘っている。何かの“ために”闘っているのではない。

 私は「反逆者」ということばの意味に、辞書にはない肯定的な面もつけ加えたい。辞書はみな例外なく、ただひとつの意味しか与えていない。それは抵抗すること、反対して闘うことだ。だが明晰な洞察もないのに抵抗し、反対して闘うことに何の価値があるだろう。あなたに未来のヴィジョンが、もっと喜びに満ちたよりよい未来のヴィジョンがないのだったら、いたずらに闘うことに意味はない。しかし光明を得ていない反逆者は、その方法論において否定的なままだ。それゆえに彼は〈半分〉にとどまる。

 反逆者ではない光明の人もまた、その同じ意味において〈半分〉だ。彼は達成されるべきものを知っているし、人間の可能性も知っている。彼は、はるか彼方の栄光が人間に可能であることを知っている。だが、彼には現存する社会、現存する隷属に対抗して闘い、未来と現在のあいだ、古い人間と新しい人間のあいだに横たわる、すべての障害と妨げに反対して闘うだけの用意がない。そういったたぐいの光明の人が存在してきた。そして彼らは崇拝されてきた――伝統的で正統的で因習的な人々、古代の遺産に根ざしている古い人間によって。

 光明を得た人にはよりよい未来、よりよい人間のヴィジョンがあるが、そのために闘うだけの度胸がない――伝統的で因習的な社会の構造や、条件づけられ、堕落している古い精神に抗して闘うだけの度胸が。なぜなら彼は、人々の寄付によって生計を立て、人々の敬意と賞賛と崇拝によって生きているからだ。彼には人々から与えられた地位を放棄するだけの勇気がない。腐った古い過去から聖人や賢者という称号をもらうことを忘れ、ただの何でもない人になるだけの勇気――非難され、磔にされることになろうとも、あくまでもまちがったものに反対して闘い、正しいもの、すべての人々の祝福になるもののために闘うだけの勇気が……。

 だから、この両者が存在してきた――光明を得ていない反逆者と、光明を得てはいるが反逆的ではない賢明な人が。私があなたがたにしっかりと理解して欲しいのは、人間は、光明を得ていると同時に反逆的でないかぎり、〈全体〉ではないということだ。彼は未完成で、完全ではない。何かが欠けている。彼は何も欠けていない存在ほどには豊かではない。

 私にとって、“光明を得た人間”とは、反逆的な、全面的に反逆的な人間を意味する。私のなかでは、反逆性と光明は、ほとんど同時に起こる現象、調和ある統合、有機的統一体と化している。私があなたがたに「私は世界に新しい人間をもたらそうとしている」と言うのはそのためだ――新たな反逆者と新たな光明を得た存在が、ひとりひとりの人間のなか、それぞれの個人のなかに統合されなければならない。

 この統合が、今どうしても必要になっている。

 過去には、完全に光明を得てはいるが反逆的ではない、ゴータマ・ブッダのような人がいた。彼が磔にされるどころか、その時代の王や皇帝や学識者たちにすら崇められたのはそのためだ。ゴータマ・ブッダが自分たちにとって危険な存在だなどという恐れは、当時の体制のなかにはまったくなかった。

 私はバクーニン、ブカーリン、カミュについて話したことがある。彼らはみな反逆的な思想家だったが、光明を得てはいなかった。彼らもまた社会によって磔にはされなかった。社会は、彼らのことばが無力であること、彼らが人々のハートに火をつけることができないことを承知していた。人々は彼らの本を娯楽として読む。彼らの著作に関するかぎり、それ以上は期待できない。だからこそ、社会は彼らを容認したばかりでなく、彼らに敬意を払い、すばらしい賞をもって彼らに報いたのだ。

 私の言う反逆者は、たんなる哲学者ではなく、実体験のある、目覚めた存在だ。彼の現存そのものが、世界のあらゆる体制に脅威を与える。

 彼の現存は、人間を奴隷にし、そのスピリットを破壊するあらゆるものへの挑戦となる。彼の現存は、強大な権力を握っているすべての者たちを心底から恐れさせる――なぜなら彼らは、もし人々から搾取できなくなったら、自分たちの権力が消えてしまうということを熟知しているからだ。その権力の座は、人々を知恵遅れのままにとどめ、人々の知性を破壊し、人々が自分自身の〈個性〉、自分本来の顔をもつことを許さないようにしておくことによって維持されてきたのだ。

 世界中に、反逆的な光明を得た人がほんの数人いるだけで、すべての権力の座は揺らぎはじめる。

 私には、十字架にかけられているただひとりのイエスでなく、何千もの十字架にかけられているイエスたちが見える。だが、彼らの死は、世界中に新しい人間と新しい意識の復活をもたらすことになる。彼らの生は、この世界を美しくするための途方もない貢献となり、彼らの死はさらに偉大な貢献となるだろう――人々は自らの尊厳、自らの人間性、自らのスピリチュアリティを取りもどすだろう。

 私たちには、何千もの十字架と、その十字架にかけられる何千ものイエスが必要だ。そうなってはじめて、眠りこんでいる人類が、「そろそろ起き上がって何かをする時だ」と感じる可能性がある。


(OSHO『反逆のスピリット』〜反逆のブッダ〜)
 
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