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2015年09月21日05:58

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インマヌエルの原事実

 手元にある聖書のマタイ伝を開いてみると、冒頭23に、こんなくだりがあります。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」
 この名は、「神われとともにいます」という意味である。

 神の子であるキリストが、イエス(ジーザス)と呼ばれていたことはよく知られているし、聖書の別の箇所でも赤子の名前をイエスと名付けることは書かれているのですが、ここに記された「インマヌエル」という呼び名を知っているひとは多くありません。

 ところがぼくにとっては、彼の呼び名はイエスであるより先に、インマヌエルなのです。これは大学時代に仏教や禅やユング心理学に取り組んでいたかたわら、滝沢克己の神学に傾倒し、彼が提唱する、万人の足元に直接無条件で与えらえられ、常にあり続けている人間の原点としての「インマヌエルの原事実」について思惟を続けていたからです。

 当時は、考えることによってこの原点、インマヌエルの原事実を掴もうとしていたから、よくわからなかったのですが、今は、明晰にありありと了解できる事柄となりました。この滝沢克己の言辞は、まさにOSHOがいうところの第五の次元について語られたものなのです。

 滝沢克己は、万人の足元に常にある絶対無条件の神と有限なる人間の絶妙なるこの接触点を「インマヌエルの原事実」と呼び、この関係に含まれる絶対の不可逆性の見地から、伝統的な仏教や禅だけでなく、イエスキリストの救いのみを絶対視する伝統的なキリスト教に見事な切り込みを加えました。

 滝沢克己は、仏教と禅を西田幾多郎から学び、その西田の勧めによって当時のキリスト教神学の大家であったカール・バルトを訪ねドイツに赴き師事したひとです。

 ぼくは大学時代、滝沢克己のサポーターの一人であった、無教会派京都洛東教会の中村牧師のもとへ友人としげく通っていたものですが、滝沢克己が吉本隆明の思惟を高く評価していたので、この中村牧師の協力を得て、あるとき滝沢克己と吉本隆明の対談シンポジュウムを仕掛けたことがあります。会場は臨済禅妙心寺派をバックボーンとする花園大学の講堂で、テーマは「信と疑をめぐる考察」だったように思います。

 滝沢さんへのコントタクトと対談依頼は中村牧師を通して行い、一方、吉本隆明氏の招聘にあたっては、東京の吉本氏の自宅まで友人と押しかけて説得し、承諾を得たものです。生身の隆明氏との出会いやそのとき交わしたことばもまたなかなか忘れがたいものなのですが、それはまた別の機会にゆずります。

 ともあれ、当時、まだ曖昧で雲をつかむようだったインマヌエルの原事実は、今、まさにこの私の根底においてのみならず、万人の根底にも同様にありありと現れあることが、体験ではなく、ひとつの決定的な事実として認知されています。

 禅仏教の唯識学のなかには、OSHOのサトルボディ論で描き出された第五身体の構図が詳細に描ききられていないため、滝沢克己の不可逆という立場からするラジカルな批判のポイントがよくつかめなかったのです。そして滝沢克己から激しい批判を受けた京都学派のお歴々の答弁の仕方もまたカテゴリーエラーによる見当はずれなものだったことが今ではよくわかります。

 さて、ここにOSHOが創造性について語った短い講話を紹介したいと思います。昨日に引き続き、ソパン訳の『英知の辞典』からの引用です。この短い講話のなかに、OSHOはみごとに「インマヌエルの原事実」を語っているのがおわかりでしょうか?

 「創造性」とは、まさに結晶化を遂げた第五身体のかぐわしい香りであり、「汝の御心のままに」が行われゆく祈りの絶景でもあるのです。

 とりわけ、「それは〈気づき〉や愛とは何のかかわりもない」という、最後の一節は注目に値します……

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 以下、OSHO『英知の辞典』372ページより

 創造性はあなたがいないときにある。なぜなら、創造性は創造主のかぐわしい香りだからだ。それはあなたのなかの神の臨在だ。創造性はあなたにではなく、創造主に属している。人間はけっして創造することができない。そう、組み立て、まとめあげることはできるが、創造主になることはけっしてできない。

 人が消え失せるとき、人が完全に不在になるとき、新しい形の臨在が彼の存在のなかに入り込む-----それは神の臨在だ。そこに創造性が生まれる。神が内に宿るとき、あなたのまわりを照らし出す光、それが創造性だ。内なる神の臨在ゆえにあなたのまわりに起こってくる風土、それが創造性だ。

 それは〈気づき〉や愛とは何のかかわりもない-----創造的な人はその両方を持っているけれど。創造的な人には〈気づき〉があるし、愛があるが、彼は瞑想者でもなければ恋人でもない。愛情に溢れてはいるが、“愛する人“はいない。瞑想的ではあるが、瞑想者はいない。
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