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2015年09月20日03:23

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〈個〉であることは、個人主義ではない

 
 誤解されやすいのだけれど、〈個〉であることは、個人主義とイコールではない、いや、むしろ〈個〉であることは、個人主義とはまったく逆の概念なのだ。このポイントはサニヤシンも、アンチサニヤシンも取り違えやすいところなので、強調しておきたい。

 言い換えるなら、〈個〉とは、ブルーの領域、第5の境域における意識の結晶化を指すのであり、イエローの領域、第3の境域における通常の「私意識」とはまったく違うものなのだ。探求者もまた、よくこのふたつを取り違えてしまい、〈個〉を自我のレベルに引き落として解釈し、自分勝手に振舞うことが〈個〉を生きることだと勘違いする場合が多い。

 だが、実のところ、その錯誤は、せいぜいのところさま酔えるハート(誤字ではありません)、第4の境域が、第5と第3を取り違えて解釈していることから発生してくるものであり、いわゆるスピリチャルナンセンスやオカルト、秘教主義、チャネリング等々の99パーセントがこれに当たる。彼らは夢見る第4身体の荒海の中に耽溺し、難破し、座礁しつつ、未だ味わったこともない第5領域以降の世界を壺の内側で想像しているだけなのだ。

 いわばまだマインドという監獄の中に閉じ込められていながら、マインドをはるかに超え自由になったという夢を見ているにすぎない。これが一番手におえない厄介物であることはいうまでもない……真の目覚めに対する最大の障壁がここにあると言ってもいい。自分は目覚めているという夢を見ている者たちに何を言っても通じないからだ。

 さあ、ここでOSHOのクリスタルのように明晰なことばに耳を傾けてみたい。出典は、ソパン訳の『英知の辞典』から。自分勝手な道を行くことが〈個〉の道をゆくことだと錯覚している者たちにはきっと耳が痛い話になると思うし、ひとのことばをコピーしてばかりいるひとは、注意したほうがいい……コピーすることほどブルーの領域、第5身体の領域を損なうものはないからだ。たとえ、それがすばらしいマスターのことばであったとしてもだ。

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 個人主義者ではなく、〈個〉になりなさい。そこには大きな違いがある。個人主義者はまだ〈個〉ではない。個人主義を信奉している人は、たんにエゴイストでしかない。そして利己的であることは〈個〉であることではない。ちょうどその反対だ---〈個〉には自我がないし、自我には個性がない。

 自我はまったくありふれた現象だ……誰でもそれを持っている! それには何ひとつ特別なことがないし、それには何ひとつ独自なものがない。誰も自我は持っている。それはあまりにも “ありきたり“ だ! ありきたりでないのは無我だ。

 無我の意識だけが個性を達成できる。「個性」と言うとき、私はまさに字義どおりのことを言っている-----「個 individual 」とは「それ以上分けられない indiivisible 」という意味だ。〈個〉とは統合されているということだ。〈個〉とは 多“ ではない、群衆ではない、多重精神ではない人のことだ。彼は調和に至った人、結晶化した存在となった人だ。

 グルジェフは「個性」と言う代わりに、「結晶化」ということばを使った。だが、やはり結晶化のための基本条件も自我を落とすことだ。なぜなら、自我は実態を持たない存在だからだ。それはあなたが真の姿になることを許さず、あなたがうそ偽りのない真の姿になることを許さない。それはあなたが成長することを許さない。それは偽物であり、まがいものであり、幻影だ。あなたは〈存在〉から分かたれてはいないのに、自分は分離しているふりをしつづけている……。

 〈個〉とは、全体として、有機的な単一体として機能できる人間のことだ。では、どうやって有機的な単一体になったらいいのか? その方法は意識的な規律しかない。

 これこそ仏陀が何度もくり返し語っていることだ。忍耐、努力、成長のための意識的な、根気強い努力------それも生ぬるいものではない、全面的な努力だ。人は100度でまで沸騰しなければならない。そう、それはときには痛みに満ちたものになるが、それもすべてあなたしだいであり、それをどのように解釈するかにかかっている。あなたがほんとうに成長したいなら、それは痛みに満ちたものではない……それはとてつもない喜びに満ちている。一歩ごとに深まってゆく規律はさらにさらに喜びをもたらす。なぜなら、それはあなたにさらなる魂を、存在を与えるからだ。

 「規律 discipline」とは、学ぶ用意ができているということだ……「弟子disciple」ということばの真意もそこにある。それらは同じ語源からきている。弟子とは何か? それは頭を垂れ、明け渡すことができる者、学ぶ用意がある者のことだ。では規律とは何か? それは学ぶことへの用意、素直さ、敏感さだ……。

 規律こそ個性を生み出すための道だ。だが、いいかな、〈個〉であることは、個人主義者であることではない。個人主義はエゴトリップだ。個人主義を信奉する人々は〈個〉ではない、ということを覚えておきなさい---よく覚えておきなさい。深いところでは自分が〈個〉ではないことを知っているので、彼らは見かけ倒しの哲学、論理、議論をつくりだす。なぜさかななら、彼らは深いところでは自分が〈個〉であるとは感じていないからだ。ただ表面的に〈個〉であるふりをしているだけだ-----彼らは個人主義を信じている。個人主義を信じることは〈個〉になることではない。信仰はつねに偽物だ。

 自分がほんとうに〈個〉であるなら、個人主義を信じる必要はない。それが自らの存在の真実であるなら、信じることは必要ない……信じる人はオウムだ。信じる人は何も知らない。信仰の人は偽装した無神論者だ。彼は自分自身を、世間を、そして神すらも欺こうとしている。

OSHO『英知の辞典』(The Book of The Books Vol.1)より

 

 
 
 

 
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