2008年4月13日、米西部シアトルで記者会見したダライ・ラマ14世は、中国チベット自治区などでの暴動に関して「チベット人の大多数が暴力に走るなら、私は(亡命政府の政治的ポストから)辞任する」と述べ、非暴力主義の立場をあらためて明確する声明を発表したようです。
多くの人々の生命がかかっているきわどい状況下において、非暴力の立場から、それでも確実に状況改善へと向かう可能性を秘めた効果ある選択を行うことは、なかなか微妙なさじ加減であり、ダライ・ラマはそのカミソリの刃の上を注意深く渡っているのを感じることができます……
チベットの真実
http://www.lung-ta.jp/spt/spt2002/index.htm
以下、OSHO『反逆のスピリット』(めるくまーる)からの引用のつづきです……。
彼らはいかなる平等性も押しつけないが、あらゆる人に平等の機会を与える。人が何になりたがろうとも、その人は平等の機会を与えられるべきだ。そうであってはじめて、人はその潜在性、その才能、その天分を開花させることができる……ある人はバートランド・ラッセルのような人になるだろうし、ある人はラビンドラナート・タゴールのような人に、ある人はピカソのような人になるだろう。
そして確かに、生と〈存在〉を豊かにする人々には、より快適な生が与えられてしかるべきだ。なぜなら、彼らはほかのだれにもできないようなやり方で貢献しているからだ。彼らの貢献はユニークであり、その独自性は尊重されるべきだ。
だがそれは、彼らの方がより優秀でより次元が高く、あなたの方が卑小で低次元だというのではない。それはただ、私たちが人間についての基本的な事実を受け容れていることを意味するにすぎない――あらゆる人はただ自分自身であり、ほかのだれとも等しくない。そして、彼にはある程度の私有財産も必要だ。ちょうど衣服が必要なのと同じように。
中国で毛沢東が権力を握っていたとき、彼は人々に制服のみを着用することを強制した。それはごく微妙なやり方で〈個性〉を破壊する方法だった。今や労働者がその制服を着用し、農夫がその制服を着用し、哲学者がその制服を着用し、神秘家がその制服を着用し、教授もその制服を着用している。これはまったく正しいことではない。なぜなら、衣服ですらあなたの〈個性〉を示すものだからだ。あなたには自分の衣服を選ぶ自由が必要であり、政府がそれを決定すべきではない。
あなたは制服の着用を義務づけられる軍隊の一員ではない。あなたは独立した個人だ。
平等性がその論理的極限にまで拡張されたなら、あらゆる人が同じ髪型にならざるをえない。もしどこかの白痴が権力を握れば、おそらく……それに知性的な人々よりも、白痴たちが権力の座に着く可能性の方が高い。なぜなら、知性的な人々は、わざわざ群衆のなかに入り込んで、権力のために闘いたいとは思わないからだ。それはそれだけの苦闘に値しない。だが愚か者たちには、厚い面の皮と固い石頭がある。
愚か者だったら、人々が似通った鼻をもつことすら考えはじめるかもしれない。ある人々には美しい顔があるのに、ある人々にはそれがない。これは共産主義の、平等性を信じる社会には好ましくない。だが、今では整形手術が可能になっている……だから、あるひとつの型をつくって、あらゆる人にその整形手術を受けさせるのだ。生まれてくる子どもはすべてその整形手術を受け、まわり中が同じような顔つきになる。はたしてそれは美しい社会だろうか? そのような醜いやり方で人間を傷つけるのは正当だろうか?
私は、貧しい人々と富める人々という階級には反対だが、私有財産には大賛成だ。その格差があまり開き過ぎてはいけないが、違いというものも認められるべきだ。そして国家は、土地財産のすべての所有者であるべきではない。すでに政治家たちは必要以上の力をもっている。彼らにさらにこれ以上の力を与え、彼らの掌中にすべての実権を握らせることは自殺的だ。
私の言う反逆者は瞑想者だ。
彼は平和を愛し、人々を愛し、人々の安寧を愛し、人々の自然な成長のためにあらゆることをする。彼はいかなる理念を押しつけることもなく、ただあらゆる人が自分自身でいられるように助ける。
そのような反逆は、かつて起こったためしがなかった。だが、今やその時だ……その絶好の時だ。もしそれが起こらなかったら、私たちは、未来にもこの人間というものが存続してゆくその可能性すら、そのすべての希望すら失ってしまいかねない。古い社会はすっかり腐りきって、今や死に絶えようとしている。それが死んでしまう前に、私たちは新しい人間の種子をつくり出さなければならない。
私が反逆を力説するのは、それらの種子をつくり出すためであり、そうすればたとえ古いものが死んでも――それは死なざるをえない、彼らは自らの死をつくり出してしまった――新しいものがそれに取って代わることができる。その新しい人間に、古い腐ったパターンを再びくり返さないよう、注意と〈気づき〉を促すことはできる。古いパターンをくり返すことの方が容易だが、いったん注意深くなりさえすれば、人は二度と再び同じ過ちを犯すことはない。同じ過ちを何度も犯すのは愚か者だけだ。
(中略)
宗教的で精神霊的な反逆、暴力の炎から生まれるのではなく、愛と慈しみのかぐわしい香り、瞑想、注意深さや覚醒から生まれる反逆こそ、この美しい惑星を楽園へと変容させる唯一の可能性だ。
そう、あなたの言っていることは、まさに私がやろうとしていることだ。あなたは言っている
「あなたは最近、反逆者に関するあなたの洞察を語っておられますが、それでもなお、私がこの瞬間に私たちのまわりに感じる雰囲気は、とりわけソフトで、愛情にあふれ、しなやかです。私には、これはあなたの魔法の一部であるように感じられます――まるであなたが自らの存在を通して、反逆者は暴力や不幸からではなく、愛と歓喜の芳香から生まれてくるのだということを示しているかのように感じるのです」
まさにそのためにこそ、私は生きている。
まさにそのためにこそ、私は“あなたがた”に準備させているのだ。
(OSHO『反逆のスピリット』〜反逆の炎として燃え上がる〜完)
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