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2015年09月17日12:32

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反逆の炎として燃え上がる 1 of 3

  以下、OSHO『反逆のスピリット』(めるくまーる)からの引用です。


Q:あなたは最近、反逆者に関するあなたの洞察を語っておられますが、それでもなお、私がこの瞬間に私たちのまわりに感じる雰囲気は、とりわけソフトで、愛情にあふれ、しなやかです。私には、これはあなたの魔法の一部であるように感じられます――まるであなたが自らの存在を通して、反逆者は暴力や不幸からではなく、愛と歓喜の芳香から生まれてくるのだということを示しているかのように感じるのです。

OSHO:暴力から生まれでる反逆者たちは、最終的にはまったく反逆的でないことが証明される。権力を手に入れた瞬間に、彼らの反逆性は消え失せてしまう。彼らは自分たちが追い出した者たちと同じほど醜くなる。なぜなら、暴力を通して愛の花をもたらすことはできないからだ。毒の種をまいておきながら、その花が毒以外のものになることを望むことなどできはしない。

 過去における最大の悲劇は、安らかで、愛情深く、静かで喜びにあふれた人たちが反逆者ではなかったことだ。彼らには、愛や慈悲や喜びからの反逆が可能になることなど思いもよらなかったのだ。彼らのヴィジョンは、その未来の可能性を見抜くほどには明晰ではなかった。だから愛情深い人々、平和的な人々、宗教的で祈りに満ちた人々は、反逆者になる代わりにただの逃避主義者になってしまった。それは彼らにとっては反逆の代用品だった。彼らは安らかで、静かで、至福に満ちた生を送るために、山々や森に逃避した。

 ある意味で、彼らは確かに身勝手だったといえる。彼らは自分たちが見捨てた人たちのことを、けっして考えなかったからだ。彼らの慈しみはそれほど大きくはなかったし、その安らぎはそれほど強くはなかった――彼らはかき乱されることを恐れていた。その愛はそれほど偉大ではなかった――反逆の炎として燃え上がるのを恐れていたのだ。

 そして一方には反逆者たちがいたが、彼らは安らかではなく、静かでもなく、歓喜など想像したこともない人たちだった。彼らは瞑想について何ひとつ知らなかった。彼らには自分のハートとの触れ合いがなかった。その反逆は、たんに自我の反動にすぎなかった。彼らはあらゆる搾取や抑圧、体制がほかの人間たちに加えてきたすべての非人間的行為に怒り、憤慨していた。彼らは自分の怒りから、自分の暴力、自分の激怒から反逆した。だから、反逆の資格のない者たちが反逆し、ほんとうに反逆の資格のある者たちは逃避していたということになる。

 暴力と怒りに満ちた人たちは成功した。が、彼らは反逆を経験するうちに、ますます暴力に慣れ親しむようになり、権力が彼らの手中に収められたとき、その権力は暴力的な人々の手に握られることになった。彼らがその権力をよりいっそうの暴力に使ったのは当然のことだ。今や彼らには、可能なかぎり多くの人々を殺戮するたいへんな機会が与えられていた。

 ときとして、彼らは無差別の殺戮を行った。ソビエト連邦では、スターリンが少なくとも100万人の人々を虐殺した――だがこれらの100万の人々は、彼が反逆した金持ちたち、その反逆全体がもくろまれた当の相手ではなかった。彼らは貧しい人々であり、彼らにとってこの反逆全体は、よりよい未来を約束し、希望を与えてくれるはずのものだった。では、なぜ彼らは殺されたのか?その理由は愚かきわまりない。

 共産主義は私有財産があるべきではないと信じるが、人々は権力をもつと人間の現実に対してまったく目が見えなくなる。たとえば、私有財産は少数の者たちにのみ集中されるべきではなく、そのことで何百万もの人々が貧困を強いられるべきではない、というのは真実だ。ここまでは共産主義はまったく正しい。だが、私有財産を完全に廃止するというのは、きわめて反心理学的で不自然な考え方だ。

 そのことは理解されなければならない……私有財産はあなたに一定の〈個性〉、一定のアイデンティティ、一定の自由を与える。もしすべての私有財産が取り払われ、いかなる個人的所有物もなしにすっかり丸裸にされてしまったら、あなたは自分からすべての自由、すべての〈個性〉、反逆するすべての能力が奪われてしまったことに気づいて驚くだろう。あなたはある種のやり方で殺されてしまったのだ。私有財産が取り上げられただけではなく、あなたもまたおしまいになってしまった。

 マルクスには心理学的洞察がなかった。彼は人間の心理・精神的な体験に関して完全に盲目だった。彼の方法論のすべては、純粋に経済的なものだった――だが人間は、たんなる金銭ではない。人間ははるかにそれ以上のものだ。人間はたんなる所有物ではなく、はるかにそれ以上の存在だ。しかし、〈個性〉というものに関するかぎり、所有物にもそれなりの価値がある。

 私のヴィジョンでは、正しい共産主義は、あらゆる人が私有財産をもてるようにするためにこそ、私有財産の少数への集中をなくす。だれひとり極端に豊かな者はおらず、だれひとり極端に貧しい者もいない。金持ちはいなくなり、貧乏人もいなくなり、中産階級だけが唯一の階級となる。そして人々は、ほとんど同等の私有財産をもつようになる。私は“ほとんど”と言っている。なぜなら、人間は数学的な観点から扱われるべきではないからだ。いくらかのおおらかさも必要だ。ある人は少し多めにもっているかもしれないし、ある人は少し少なめにもっているかもしれない。が、それはかまわないし、誰もそれで傷つくことはない。人によっては必要かもしれない……医者には自家用車が必要かもしれない。それは彼の仕事の一部であり、彼から自家用車を取り上げてしまうことは、医者という職業にとって必要不可欠なものを奪い取ってしまうことになるからだ。

 だからこの多くをもたない何百万もの貧しい人々――ある人は二頭の牛をもち、ある人は一頭の馬をもち、ある人は何羽かのめんどりをもち、またある人は小さな土地をもっていた……。だが共産主義者たちの盲目的な数学的・経済学的頭脳――それは全権力が手に入ったとき、よりいっそう盲目的になった――は人々からあらゆるものを奪い取りはじめた。自分たちの食料すら充分に取れない小さな一片の土地。だが、それが彼らの所有するすべてだった。それは彼らが先祖代々から受け継いできたものだった。それすらも失ってしまった彼らは、突然、自分たちが丸裸になっているのに気がついた――まるで身ぐるみ剥がれてしまったかのように。

 彼らの家もたいしたものではなく、けっして宮殿と呼べるような代物ではなかった。彼らは牛や馬たちと同じ屋根の下に住んでいた――それは家というより家畜小屋に近かった。が、それすらも取り上げられた。あらゆるものが国の所有物になってしまった。そしてこれらの貧しい人々――彼らのためにこそ革命はなされたはずだった――はわけがわからなかった。いったいこれはどういう種類の革命なのだろう? 彼らは自分たちの貧困が消え失せて、もっと豊かになるものとばかり思っていたのだ。しかし反対に、彼らがそれまでもっていたものすらもなくなってしまった。今や彼らは乞食と同じだった。

 生産手段のすべてが国家に掌握されるようになり、権力の座にあった人々は今やはじめて、二重の権力をもつようになった――政治権力と経済的実権のすべてを。それまでは、それは分割されていた。経済的実権は、金持ちたちが握り、政治権力は政治家たちが握っていた――いくらかの分割もあった。が、今や権力はすっかり全体主義的になってしまった。権力のすべてが、支配者である人々の手に集中するようになったのだ。

 教育も受けていない貧しい人々には理解できなかった――これは何という平等だろう? 彼らはあらゆる人を貧しく、平等に貧しくしているのだろうか? 革命は、こんな平等のためにわざわざ闘われたのだろうか? そしてこれらの人々は、自分たちの鶏、自分たちの一片の土地、自分たちの小さな家、自分たちの馬や牛を共出することに逆らったがゆえに……反抗したがゆえに、いとも簡単に殺されてしまった。

 暴力からはさらにより多くの暴力が生まれるだけだ。

 それは百万の人々は下層中の最下層だった。革命は貧しい人々を虐殺した。それは盲目的な革命であり、それはそうなって当然だった。なぜなら、反逆者たちにはいっさい慈悲という考えがなかったし、人類に対する愛もなく、精神霊的な体験もなかったからだ。彼らはその美しいスペースからやって来たのではなかった。彼らはよりよい人間性のために闘っていたのではなかった。彼らは怒りゆえに体制を破壊することに関心があったにすぎない。その怒りのなかにあったのは嫉妬であり、羨望だった――すべてのまちがったものがそこにはあった。

 私の努力は、反逆者とサニヤシンとのあいだに大いなる統合をもたらすことにある。サニヤシンは逃避者であるべきではない。彼は自分の愛を育て、自分の慈しみを充分に強くし、自分の歓喜を深く根づかせ、それを中心の定まった円熟したものにすべきだ。そしてこの愛に満ちたスペースから反逆するべきだ。

 その反逆において彼は、基本的に、体制を破壊することにではなく、新しい世界を創造することに関心をもつ。その焦点は新しい世界、新しい人類、新しい価値をもった新しい人間性を創造することにある。新しいものを創造するために、彼は古いものを壊さなければならない――だがそれは怒りからではなく、あくまで必要性からだ。
 
 そして彼は、人々に知的な考えを押しつけるのは危険だということを理解していなければならない。あなたはまず人々の心理を理解し、それに従ってあなたの反逆が形づくられなければならない。その反対であってはいけない――人々をあなたの反逆の観念の鋳型にはめてはならない。

 人間はけっして、いかなる理念のためにも犠牲にされるべきではない。すべての理念は、人間のために用いられるべきだ。人間の心理を研究すれば、確かに人々のあいだの大きな格差は醜い社会をつくり出すといえる。

            (つづく)
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