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2015年08月29日10:16

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四国遠征−28/松山城(後編)

それでは「天守」のある本壇内部に入ってみよう。
本壇は本丸広場よりも約10m高い石垣の上に築かれており、登り坂の入口は四方から攻撃出来る配置になっている。

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・TOP左画像
ゆるキャラ「よしあきくん」
本丸広場で出迎え。

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「馬具櫓」
本丸西側中央に復元された二層二階建ての「馬具櫓」で管理事務所として利用されている。
この辺りの石垣は「屏風折れ」(びょうぶおれ)と言うジグザグに折れ曲がった組み方で、石垣を登る敵兵に側面から攻撃出来る。
奥に南隅櫓(左)、小天守(中)が見える。

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「紫竹門」しちくもん(重文)&「紫竹門西塀」(重文)
この高麗門は天守への入口に見えるが、実は城の裏側(搦手/からめて)に通じる入口。
外敵を混乱させる配置になっている。

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「一ノ門東塀」(重文)、「二ノ門南櫓」(右)

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「小天守」(左)、「一ノ門南櫓」(右)

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↑(TOP中、右画像)
本壇への虎口から眺める「天守」

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「一ノ門」(重文)

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「一ノ門」と「二の門」の間の枡形
正面は「二の門南櫓」(重文)

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「三ノ門」(重文)と「天守」(重文)

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「一ノ門南櫓」「乾門東続櫓」

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「天神櫓」
本壇・北東の隅櫓で昭和54年に復元。

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「鉄筋門」と「鉄筋門東塀」「乾門東続櫓」

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↑6-1
中庭から見上げる「天守」と「鉄筋門」
連立式天守の中庭まで来た敵は四方八方から総攻撃を受ける事になる。

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中庭から見る「鉄筋門」と「小天守」

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中庭から見る「小天守」と「多聞櫓」

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本来の玄関は別になるが、現在は「天守」内部へは「天守」の下の米倉から入る。

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「小天守」より見下ろす「三ノ門南櫓」(左)、「二ノ門南櫓」(奥)、「一ノ門」(手前)

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「北隅櫓」から見る「天守」と「鉄筋門」

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「野原櫓」(重文)

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↑7-5
本壇西側は何やら工事中でした。
「南隅櫓」から見る左から「乾門東続櫓」、「乾櫓」(重文)、「野原櫓」(重文)

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内部

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「天守」最上階
天守は当初、五層六階だったが、寛永16年から3年かけて三層三階に改築。
天守を小さくする事で幕府に恭順の意を示したと言われているが、実は地盤が悪く倒壊を防ぐためのようだ。

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「天守」より松山市内を遠望


さて、松山城の城主について調べてみよう。
加藤嘉明は秀吉の小姓として仕え、柴田勝家と争った「賤ヶ岳の戦い」を始め、四国征伐や九州征伐で活躍。
関ヶ原の戦いでは東軍に味方し大勝した事から伊予半国の大名となる。
しかし、伊予入封時の正木城では手狭になり、慶長7年(1602年)に標高132mの勝山に築城を開始する。
築城と並行して城下町を建設し、それまで「道後」から「松山」へと中心地を移す。
その後、慶長10年に天守が完成し、着工から25年後の寛永4年(1627年)にようやく一応の工事が完了する。
ところが同年、嘉明は幕府から会津へ転封になり、長年に心血を注いで築き上げた城を出る事になる。


つづく


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