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2015年08月11日18:31

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空手部時代の思い出

空手のことをつぶやいたら、高専の空手部時代のエピソードを一つ書きたくなった。
ちょっと長いけど、読んで下さい。

僕が3年生(18歳)の頃だった。

放課後、校舎の中庭で空手部員たちと練習をしていると、道場の師範が、27歳くらいの精悍な青年をつれて練習指導に来られた。

練習の後、その青年(以後Aと称す)は、「この空手部が気に入った。これから、ちょくちょく来て、空手を指導したいが、いいでしょうか?」と師範と部員たちに尋ねた。僕らは「オスッ」と二つ返事で了解した。

それから、Aの恐ろしい、地獄の様な指導(というか、シゴキ)が始まった。

Aはいつも竹刀を持って練習場に現れ、部員をバシバシ叩き、少しでも気が緩むと、みぞおちを蹴ったり、顔面に裏拳(手の甲でスナップを利かせて殴ること:「燃えよドラゴン」でブルース・リーが試合の時に使った技)を飛ばしたりした。

本人(A)の空手の技量は高く、至って真剣なので、部員たちも最初の内は文句を言わ従っていた。

しかし、日を増すごとにだんだんとシゴキがエスカレートしてきた。
練習が終わる頃には、みんな、口や鼻から血を流し、胴衣が真っ赤に染まった。
ブルース・リー効果で、以前の2倍の員数になっていた空手部員は、段々と辞めていって、また半数に戻ってしまった。

Aは元893の方だったので、「ついに本性が出たか?」と思った。部員たちもみんなAを嫌いだした。

「このままでは空手部は崩壊する」と思った僕は、4年生のキャプテンの部屋に行って、「このままでは、空手部は崩壊します。今度、Aに2対1の公開組手を申し込んで、二人で叩きのめしてやりましょう。こちらも怪我をするかも知れませんが、二人なら勝てます。Aも部員の前で叩きのめされたら、もう来なくなるでしょう」と言った。

まるで、土方歳三が近藤勇に芹沢鴨を排除する相談を持ちかけたような話だ。
僕も無茶を言ったものだ。

しかし、キャプテンは人間が出来た方で、「その方法は良くない。俺たちの方が若いんだから、Aをバテさせる作戦をとろう」と言った。

その一環として、翌日朝5:00に部員全員でAの家まで駆け足行って、「オスッ、オスッ」と大声を出して、Aを叩き起こした。

Aは眠そうに眼を擦りながら、「はりきっとるの〜、どうしたんか?」と家から出てきた。
その後で、若い夫人が1歳くらいの赤ちゃんを抱えて出てきた。

Aは「これが、ワシのカミさんと息子じゃ」と紹介した。
その時、「僕たちは人の迷惑も考えずに、ひどいことをしたのではないか?」とふと思った。

Aは「こんなところで、大声を出したら、周りに迷惑だ、裏山に上ろう」といい、みんなで裏山に上がった。

Aの奥さんは、ずいぶん遅れて、子供を抱えて裏山に上がってきた。
Aは「お前も来たんか?お前は家におればエエのに」というと、奥さんは「人生の坂道だと思って登ってきました」と言った。

僕は「はっ」と思って奥さんを見た。さみしげに笑っていた。
奥さんは、器量は並みだが、小柄でおとなしい感じの人だった。
顔に痣の様な痕もあった。

Aの気性から察すると、この奥さんを殴ったこともあったろう。
奥さんはAと結婚して子供をもうけて、自分は幸せなのか?と自問したのではないか?
そして、今の辛い時期が、自分の人生の坂道かも知れない、と思ったのではないか?

そう思うと、何か熱いものがこみあげてきて、Aに対する憎しみも消えていった。

他の部員たちも、僕のように思ったかどうかは知らないが、その後はAの指導に従うようになった。Aも心もち、やさしくなったような気がした。

それからしばらくして、県内の高校空手道選手権大会(団体戦)があったが、僕らのチーム(三年生まで)は敵なしだった。
何しろ、練習量と密度、気合が違っていた。

空手道の団体戦は剣道と同じく5人一組:先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の順に戦う。

決勝戦の相手は岡山の県立朝日高校だった。
朝日高校は、県下で有名な進学校だが、当時は空手部も強かった。

決勝戦は4−1で勝った。
負けたのは大将だった僕だけ。
朝日高校の大将は、6歳から空手をやっていたという、当時名が知れた名手だったので仕方が無かった。

試合後、練習試合に行ったこともある、津山工業高校の空手部の顧問の先生が来られて、「いやーっ、おめでとう!しかし、僕は、試合前から結果を予想しとりました。この前、練習試合でうちに来られた時に、昔と気迫が違うことに驚いた」と言われた。

僕は「なるほど、厳しいシゴキの練習もそれなりの効果はあるんだな」と思った。






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