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2015年05月24日10:20

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【長文】「たとえ天が崩れても、生き残る穴はある」

・・・ということわざが韓国にあるという。

最近たまたま江戸時代のことを調べていたのだが、
周知の通り江戸時代は
強固な身分社会、家社会で、
生まれた家柄によってどの程度まで出世できるか
というのが原則的に決まっていた。

だから、いい身分の家の嫡子の長男なんかに生まれたら、
ボンクラでも大名だの家老だのになれたし、
そういう者は大体、内的葛藤を経験していない「子供」か
現実追随のみを事とする「老人」か
あるいはその両方を兼ね備えた「子供老人」だった。

江戸中期から幕末にかけては
幕府や藩のトップの過半は「大人への成長」を経ないまま
家柄と格式でその地位についた「子供で老人」で
占められてしまった。

しかし、江戸の身分社会には
空気穴みたいなのがいくつもあった。

「学問」というのがその一つであった。

昌平黌みたいな官学にせよ、適塾や松下村塾みたいな私塾にせよ、
身分の高下を問わず、才気煥発で好学の子供や若者がいたら
「お前はあそこに行け」と言われて問答無用で放り込まれたり、
志を立てて自分からそこに入門したりするような学び舎があって、
そこに入ると、同じように才気煥発で
それぞれ違った気質や才覚を持った連中が集まっていて
そいつら同士で議論し揉み合い切磋琢磨して、
さらに才能や見識を高め合うようになっていた。

異国船が来て開国を迫ったり、
海外の状況がわかってみると、
世界の大半が列強の植民地になっていたような状況に
対応できない「子供老人」(の中でも少々物のわかった人)たちは、
身分がどうのこうのという頑迷な反対派を抑えて
封建身分秩序における「穴」で育った人材を
大抜擢したりして制度内に取り込んだり、

あるいはそういう連中自身が
「こんな体制ではダメだ」と見切って
その体制自体をスクラップにしてしまったり、

あるいはまた、勝海舟みたいに
旧体制がダメなのは分かっていても、
その崩壊で巻き添えになって破滅する者が
最小限度で済むように奔走したりする者もいた。

徳川封建社会はそういう
体制にとって両面性を持つ優秀な人材が生存する
「穴」を残しておく余裕というか程よい迂闊さがあって、
そのおかげで徳川幕府は潰れても、日本国は
潰れて外国の植民地になったりせずに済んだ。

今の日本には、果たしてそういう「穴」があるのか?
むしろそっちのほうが気になる。

少なからぬ人々にとっては、
安倍総理とか橋下とかがまさに
既存の体制の「穴」から飛び出してきた改革者に見えるのだろうが、
安倍にしろ橋下にしろ、
教育や大学・学校に対する仕打ちを見たら、
むしろそういう「穴」を埋めてしまって、
優秀だが今の体制やシステムやイデオロギーを
根本から疑いうるような者は
制度的に根絶やしにしようとしているかの如くである。

この対談で述べられている「大人」というのは、
現在の体制・システム・イデオロギーが完全・完璧・絶対ではなく
たくさんの無理矛盾を抱えていることはわかっていながら、
同時に、多くの人間がこの枠組みに依存しているということも
よくわかっていて、それゆえに葛藤を抱えている者のことを指す。
(と思う)

安倍ちゃんもハシゲも
「戦後レジームの解体」とか「大阪市をぶっ壊す」とか言って
改革者・破壊者・革命家的なポーズで登場して
世の喝采を浴びたけれども、
実は現在の世界の潮流ともなっている
新自由主義ネオコン・イデオロギーに対しては
チラとも疑ったことがないらしい点が共通している。

彼らが社会を変えるというのは、
ネオコン・イデオロギーが徹底されるように
社会を変えるということを意味する

彼らはどういうわけか「保守」に分類されているそうだが、
世界を「敵/味方」「悪玉/善玉」の二つに分けて、
我々=善玉に反対する者は敵・悪玉であり、
敵とは一切の妥協・対話の余地なく
これを攻撃・殲滅せねばならない
・・・というような図式的思考の持ち主である点は、
むしろ左翼やアルカイダとかISILみたいな
原理主義者に似ている。

こういう精神構造の持ち主にとっては
下手に「成長」なんかして、

 「自分と考えの違う人も必ずしも悪でも敵でもなくて、
  相手にもそれなりの立場や考えがある」

などと悟ってしまうことこそ、敵との妥協というか
「敵」に付け入る隙を与えてしまう悪なのである。

たとえばハシゲとその追随者たちは
「既得権打破」をお題目にしてたけれども、

 「大阪市があまり褒められた状態でないのは認めるけれども、
  大阪市民だって大阪市における『既得権者』のはず・・・」

という考えは(不思議なことに)全然なさそうだった。


この点、内田樹・白井聡両先生とは
ひょっとしたら考えが違うかも知れないのだが、
日本はむしろ、この100年あまりをかけて、
“(葛藤を持たない)「子供」と(現実に追随する)「老人」”しか
いない国づくりを目指し続けてきた、と言えると思う。

まず明治時代の中頃から戦前には、天皇を神格化して
「天皇崇拝を受けつけない奴は悪」と決めつけた。

特に十五年戦争のころになると
それがますます嵩じて、
「天皇陛下の名において行われる国策に同調しない奴は悪」になった。

敗戦後は一転して
「戦前はぜんぶ悪」になった。
それで保守とか革新とかいっても、結局のところ
アメリカに追随するか、ソ連などの社会主義国に追随するかの
違いになった。

政治的にはアメリカに追随しながら、
思想・教育面ではソ連などに心を寄せて、

気がついてみたら戦後日本は
アメリカ型の徹底した経済的自由主義でもなく、
かといってソ連みたいな一党独裁体制でもない
両方のいいとこ取りをして経済大国として大復活を遂げつつ、

平和憲法のおかげで軍事的負担を免れて
戦争戦争さらに戦争というアメリカ軍とか、
ベトナム戦争に派兵した韓国軍みたいな羽目にならずに済み、

かといって独裁体制・統制経済で
技術革新もできず経済もボロボロになり、
そしてそれをおかしいとも批判できなかったソ連の
二の舞にもならずに済み、

経済発展の富を国民に広く還流するという(←ココ極めて重要!)
経済学的にみたら奇跡に等しいことを成し遂げて
20世紀の終わりには堂々たる
経済大国・技術大国・文化大国に上り詰めていた。

それはいいのだが、
あまりに上手くいきすぎたせいで少々油断して
1990年代のバブル崩壊の後
「失われた10年」とか20年とかいわれる事態になり、
軍事についても、装備その他のハード面以上に
国民一般に軍事そのものについての
基本的な知識が欠如したままになって、
国力と外交と国防の兼ね合いも視野に入れた
日本国にとって適正な対外政策を考えるのが困難という
ソフト面の問題が浮上してきた。

安倍ちゃんなんかは(その前の小泉とかも)
まさにそういう時代の流れに乗って浮上してきたと思う。

小泉・安倍・橋下などに共通してるのは
「既得権者・抵抗勢力は悪!」という論法である。

「既得権」というのはぶっちゃけて言えば、
左翼が使う「反動」「ブルジョワジー」というのと同様
「倒すべき敵」という意味のレッテルであるが、
ここでは、日本の市民であり、
法の下で基本的人権を保証されて福祉を享受していること自体が
相当大きな既得権であることは、故意に隠蔽されている。

一般市民のそれも含めた既得権をぶっ壊して
アメリカをはじめとする資本家、巨大多国籍企業に叩き売り、
新自由主義=ネオコン・イデオロギーを貫徹しようとする
恐ろしいレトリックがそこには隠されているわけである。

そう考えてみたら、
「大人」を中抜きして子供と老人ばかりにするというのは
超長期的な見えざる国家プログラムだったといってもよい。

そんな中であえて
「大人」になるにはどうしたらよいか?

簡単に答えが出る問題ではないが、とりあえず
歴史的な視点と、局外からの視点を導入して
立体的に物事を考えてみることと、

「そんな簡単に白黒つけられる問題と違うやろ?」
「相手にも立場っちゅうもんがあるのと違うの?」
「とりあえず両方の顔が立つ方向を考えてみましょうや」

と口にしてみることが、その第一歩になるかもわからない。

―――――――――――――
内田樹×白井聡 ベストセラー論客が暴く、戦後日本人の精神構造 「トップが大人への成長を放棄、日本は“子供と老人しかいない国”になってしまった」


対談本『日本戦後史論』が話題の、思想家・内田樹氏(右)と注目の若手論客・白井聡氏
『日本戦後史論』(徳間書店)という対談本が注目を集めている。

著者は内田樹(たつる)氏と白井聡氏の人気論客ふたりで、憲法改正、集団的自衛権の行使容認、原発再稼働など、ここ数年、日本が直面する諸問題について「戦後の歩み」という視点から分析し、警鐘を鳴らしている。

戦後日本は「対米従属を通じて対米自立を実現する」という「葛藤」の中で成長してきた。だが、ここ10年、日本は葛藤を捨て思考が停止していると、ふたりは怒りを露(あらわ)にして訴える。

(前編記事→ 内田樹×白井聡、ベストセラー論客が怒りの対談!)

* * *

―なぜ、日本人は考える力を失い、成長や成熟を拒否するようになったのでしょう?

内田 「青年」がいなくなったことが大きく関与していると思います。

日本社会に子供と大人の両方をブリッジする「青年」という立場が生まれたのが、明治40年代です。それ以前は、子供は元服を経て、いきなり大人として扱われた。

明治維新の後、欧米列強に伍して一気に近代化を遂げなければならないという時には子供と大人の中間に青年という社会的な層が構想された。近代化のためには、十分な社会的能力がありながら環境の変化に対応できる柔軟性を備えた集団がどうしても必要だったからです。

夏目漱石が『三四郎』や『坊っちゃん』を、森鴎外が『青年』を書いたのは、それまで存在しなかった「青年」をロールモデルとして提示するためでした。

白井 それらは青年が大人になろうと葛藤する物語ですね。

内田 そうです。『坊っちゃん』の主人公が松山の中学校を辞めたのは1905年です。当時20歳なら、「坊っちゃん」は1885年生まれということになる。

つまり、敗戦の年、1945年に「坊っちゃん」は60歳だったということです。この世代が日露戦争、第1次世界大戦、大正デモクラシー、大恐慌、満州事変以後の戦争を経験し、敗戦までの日本を事実上牽引(けんいん)してきたわけです。彼らが近現代日本において、子供たちの自己造形のロールモデルだった。善し悪しは別にして、「坊っちゃん」や「三四郎」的な青年たちをモデルに子供たちは大人になる道筋を学ぶことができた。

その「青年」たちが消えたのが東京オリンピックの頃です。「坊っちゃん」が80歳になった頃に「青年」たちは社会的な指南力を失った。そして、子供たちは成長の手がかりを失ったのです。
白井 本当の大人というのは理想を持っていて、その理想とは程遠い現実との間で葛藤する。その葛藤に耐えることができるのが「大人」だと思うんです。葛藤を避けて「現実がこうだから仕方ないだろう」って諦めるのは大人じゃなくて「老人」なんですよ。

日本の社会からそういう大人がいなくなったので、「青年」も必要なくなった。ひたすら現実を受け入れるしかないなら、最初から理想なんて持たないほうが効率的です。そうやって日本は「子供からいきなり老人になることを要求される社会」へと変質したのだと思います。子供と老人しかいない。

内田 今の日本に、かつての元服に相当するような通過儀礼があるかといえば「就活」がそれに当たるかもしれません。ただし、就活は子供たちがある日突然、全員同じ服装をして、同じ言葉遣いをして、同じ価値観を共有することを制度的に求められるわけで、別に子供たちに「大人になること」を求めているわけではない。

むしろ、理想も正義感も捨てて、上の人間の言うことに無反省に従属する「イエスマン」になるための儀礼でしかない。

白井 その結果、日本はこの20年ぐらいで、普通の企業でも官僚の世界でも大学でも上層部は「イエスマン」しかいない社会になってしまった。

表向きは「個性が大事」とか言いながら、少しでも会社や上司に批評的なことを言ったり、大多数の人間と違う視点で考えたりする人間というのは非常に嫌われる。葛藤していない人間、つまり成熟していない大人のほうが出世できる仕組みになっている。

一方、上に立つ人間も自分が葛藤を捨てているので、下から何か異論を挟まれると、その異論を処理する能力もない。そう考えると日本社会の一番上にいる安倍首相というのは、そうした人間の典型で、彼のようなキャラクターというのが日本人のデフォルトになりつつあるということだと思うんです。

もちろん安倍首相にだって、個人的な内面の葛藤があったはずです。でも、彼はどこかの段階でそうした葛藤を殺しちゃったんでしょう。葛藤している人というのは、自分の中にもうひとりの自分がいて、絶えず「本当にそれでいいのか?」「違うんじゃないか?」と、心の中の「相方」が話しかけてくる。ですから、葛藤している人間は他人の意見もよく聞く。

最近の沖縄問題に関する議論でもそうですが、安倍さんが異論に対してまったく対話できないのは、彼が内的な葛藤をすべて捨てて、自分の中にシンプルなキャラクターを設定したことで成功を収めたからだと思います。その結果、自分に対してイエスという声しか聞こえない。

日本人が青年期を失い、社会が葛藤や逡巡(しゅんじゅん)を受け入れなくなって、大人への「成長」を放棄した人間がトップにまで上り詰めるような国になったということでしょう。

―日本はこの先どうなってしまうのでしょう?

内田 子供たちがバカをしても、まっとうな大人が要所を押さえていれば社会は回る。それくらいの余裕をもって社会は制度設計されています。でも、今ほど子供が増えて、大人が減ってくると、システムが綻(ほころ)びてくる。

集団が生き延びるためには、一定数の大人がどうしても必要です。「他の連中が好き勝手に子供をやっていても、せめて自分くらいは大人にならないと社会は回らない」と腹をくくる人が出てこないと話にならない。

白井 去年、大学の授業で延々と原発問題の話をしていたのですが、原発被災地から避難してきた学生がいて、「事故が起きた時、周りの大人たちは2、3日で帰れると思っていたけれど、自分はもう二度と故郷に戻れないと直感した」と言うんですね。

その学生が「授業を受けて、一番大事なことは自分の頭で考えることだと思った」とレポートに書いてきた。

原発事故の被害者だからこそ、自分は成熟しなければならない、大人にならなきゃいけない、周りの大人たちは見かけと違って大人じゃなかったと気づいたということですよね。そういう若者がどんどん増えてこないといけない。

内田 最近、政権与党や官邸があからさまな形で大手メディアに圧力をかけたり、メディアの側がそれに迎合したりというのが問題になっているけれど、それで徹底的な報道管制ができるわけではない。統制の及ばないメディアはいくらでもあるし、海外の新聞の日本についての報道もネットで簡単に読める。戦前とは状況が違います。

今の日本の状況を正確に理解して、自分の頭で考えて、大人になる道筋は整っている。あとは本人の決意の問題です。

●内田樹(うちだ・たつる)
1950年生まれ、東京都出身。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院博士課程中退。神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学客員教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。近著に『街場の戦争論』(ミシマ社)、『内田樹の大市民講座』(朝日新聞出版)、『竹と樹のマンガ文化論』(竹宮惠子氏と共著・小学館新書)、編著に『日本の反知性主義』(晶文社)などがある

●白井聡(しらい・さとし)
1977年生まれ、東京都出身。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。専門は政治学・社会思想。文化学園大学助教を経て、京都精華大学人文学部総合人文学科専任教員。著書に『永続敗戦論』(太田出版)、『日本劣化論』(笠井潔氏と共著・ちくま新書)、『偽りの戦後日本』(カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と共著・KADOKAWA)など

(構成/川喜田 研 撮影/祐実知明)

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