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2015年04月05日18:45

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『いずも』の同型艦の名前も気になるけど・・・

先代の装甲巡洋艦・出雲はロシア海軍のウラジオ艦隊を何度も取り逃がしたため、提督の上村彦之丞は当時の野党代議士から無能呼ばわりされ、一部の民衆は自宅に投石したり、『腹を切れ』とばかりに短刀を投げ込まれる事件が頻発した。


戦争とは血で血を洗うやり取りであるが、戦場から遠く離れて安全なところにいる奴らが冷静さを失い、怒りの矛先を誤った方向に向けるというのは愚劣としか言いようがない。


まあ、そういう愚劣な行為を今も野党やマスゴミは引きずって、政府や関係者を吊るし上げ、自分自身は正義の代弁者であるかの如き自己陶酔で世論を誤った方向に導こうというのは反吐が出るものです。


また、上村提督は何度も取り逃がしたウラジオ艦隊をようやく捕捉・撃沈したときには、相手の乗組員の救助も行う真の武人であった。


その行いは太平洋戦争においてもスラバヤ沖海戦で駆逐艦『いかづち』『いなづま』姉妹にも引き継がれていた・・・


旧日本軍が【極悪非道】であったが如き宣伝は、いまなお中国や韓国は世界中に広めようとしているが、実際には旧日本軍は、戦うことが出来なくなった敵兵を可能な限り救助しているのです。


逆に、アメリカ軍の方は、既に船が沈んで漂流している日本人に対して、戦闘機が機銃掃射で撃ち殺すという国際条約違反の残虐行為を繰り返していた。


それらの戦勝国の戦争犯罪行為は(東京大空襲を始めとする日本各地への空襲やヒロシマナガサキへの原爆投下などの非戦闘員に対する大量虐殺も)、東京裁判などでは一切裁かれることなく、日本国内でも戦争責任といえば


《戦争を仕掛けた日本軍が悪い》


とだけ断罪し、戦争を煽った大手新聞社や政治家などは殆ど反省していないし、なぜ、日本がアメリカ相手に戦争を仕掛けなければ成らなかったかという因果関係


(石油を禁輸されたら今の日本でも経済は破綻し、国民生活は窮乏する)


を全く教えずに、口先だけの平和教育・空襲や沖縄の地上戦の悲惨さだけを子供たちに教えて、戦争について忌避するだけでは何の意味もない。



あと春名とかいう早稲田の教授・・

ぐぐったけど・・この教授・・共同通信の記者としてワシントンとかで特派員していたらしいが・・・・どうやら陰謀史観にでも染まっているような本ばっかり出しているわwww

『密約がある』って公言するけど・・・密約なんてものは知られていないから密約なんだろwww

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E5%90%8D%E5%B9%B9%E7%94%B7


そもそも、日米が有事の際に共同歩調を取るのの何処が不味いの?

共同通信という左掛かった会社に居たから、その社風に染まりきって、日米同盟にケチを付けたいだけじゃないのか?


アメリカに文句をいうなら、先の戦争での民間人大量虐殺である都市空襲や商船撃沈&漂流した船員への機銃掃射・虐殺について文句言え


そして、日本軍の日露戦争・太平洋戦争での敵軍将兵の救助についても言及しやがれ!


暁型駆逐艦・雷・電と、装甲巡洋艦出雲・その乗員たちに謝れ!



常陸丸事件

開戦当初、第二艦隊司令長官として補給航路防衛の任に当たっていたが、日本海特有の濃霧やウラジオストク艦隊側の神出鬼没な攻撃に苦しめられた。常陸丸、佐渡丸が相次いで撃沈される常陸丸事件が発生すると、防衛責任者として糾弾された。議会では野党代議士から「濃霧濃霧と弁解しているが、濃霧(のうむ)は逆さに読むと無能(むのう)なり、上村は無能である」と批判され、また民衆からは「露探(ろたん)提督」(ロシアのスパイという意味)と誹謗中傷されたうえ、自宅に投石された。この事態に部下たちは憤慨したが、上村は「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わなかったといわれる。上村の妻は毎日寺参りをして敵艦隊発見を祈願していた[6]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%BD%A6%E4%B9%8B%E4%B8%9E

海上自衛隊最大の艦艇 護衛艦「いずも」の巨大甲板に立った
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=3356428


出雲 (装甲巡洋艦)
装甲巡洋艦 出雲

艦歴
発注
起工 1898年5月14日
進水 1898年9月19日
就役 1900年9月25日

その後 1945年7月24日戦没
除籍 1945年11月20日

出雲(いずも)は、大日本帝国海軍の出雲型装甲巡洋艦の1番艦。
日露戦争や第一次世界大戦、日中戦争に参加し、太平洋戦争で戦没するまでの45年間現役にあった。

艦歴

六六艦隊計画(戦艦6、装甲巡洋艦6)の一つとしてイギリスに発注された。
日露戦争では上村彦之丞提督率いる「上村艦隊」の旗艦として参加し、殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦磐手と共に活躍している。


日露戦争中の出雲は通商破壊戦を行うウラジオ艦隊を警戒して対馬海峡に展開していたが、その努力も虚しく1904年(明治37年)6月15日に陸軍の輸送船「常陸丸」がウラジオ艦隊によって撃沈される常陸丸事件が発生してしまう。降伏を拒否して小銃で応戦した陸軍将兵達の悲壮な最期が国内に伝えられると、濃霧によりウラジオ艦隊を取り逃がした上村や出雲の所属する第二艦隊は国民からの強い批判にさらされた。演説会や新聞では「無能」や「露探(ロシアのスパイ)提督」などと中傷され、激昂した暴徒が上村将軍の家に押し寄せて石や短刀を投げつける事件も発生している。この事態に上村の部下たちは憤慨したが、上村は「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わなかったといわれる。上村の妻は毎日寺参りをして敵艦隊発見を祈願していた。

常陸丸事件から2か月後に発生した蔚山沖海戦では、第二艦隊がついにウラジオ艦隊の装甲巡洋艦リューリクを撃沈した。上村将軍は残存する敵艦の追撃を指示するも「我レ、残存弾数ナシ」の報告を受け結局攻撃を断念した。

撃沈されたリューリクは日本の艦船を多数撃沈しており、上村中将にとっては常陸丸事件の件でも恨みの深い相手であったが、沈みながらも味方艦を逃がすために砲撃を続ける姿に感銘を受けた日本艦隊は生存者の救助に当たった。この行動は国内外で賞賛され、後にこの救助活動を元にした「上村将軍」という歌が作られている。スラバヤ沖海戦で敵兵を救助した工藤俊作もこの歌を祖母から子守唄のように聞かされていたとされている[1]。


上村将軍(一部) 作詞:佐々木信香 作曲:佐藤茂助


蔚山沖の雲晴れて 勝ち誇りたる追撃に 艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック

恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり 英雄の腸ちぎれけん

救助と君は叫びけり 折しも起る軍楽の 響きと共に永久に

高きは君の功なり 匂うは君の誉れなり


この際、出雲に救助されたリューリクのロシア将校が艦内に小鳥が飼われているのを見つけ「この小鳥は前から飼っているのか」と聞くと、日本人通訳が「あれはリューリックの溺者を救助にいったものが海に浮かんでいるのを見つけて可哀そうだから捕えてきて飼っているのだ」と答えると、ロシア将校は涙を浮かべてそれは自分が飼っていた鳥であること、通商破壊戦で多くの民間船を撃沈していたため報復されると思っていたことを語り、神に黙祷を捧げたというエピソードが残っている[2]。艦を指揮した上村中将は非常に感情の激しい人物として有名であるが、鳥が好きであった。この際救助した小鳥かは不明だが、肩に小鳥を乗せて笑みを浮かべている写真を何枚か残している。
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