今日は何を書こうかなとネットを見ていて、
今日が河井継之助の誕生日である事を知りました。
河井継之助は、1827年1月27日(文政10年1月1日)に生まれています。
越後長岡藩の武士の家に生まれ、幕末の騒乱の中で、藩の家老上席になっています。
戊辰戦争最大の激戦となった北越戦争を指揮し、
長岡の町を灰燼に帰させた張本人でもあって、
有名な米百俵の物語は、北越戦争の後日談です。
僕が初めて河井継之助を知ったのは、
中野好夫の「忘れえぬ日本人」だったと思います。
戊辰戦争の時に長岡藩を幕府軍にも官軍にも属さない
中立を保とうとした人物として描かれていたと思います。
その後、司馬遼太郎の歴史小説「峠」で更に詳しく知りました。
今調べてみたら、「峠」の方が先に執筆されているようなので、
あくまでも僕が読んだ順番がそうだったと言う事です。
河井は藩の役職に就く前に、備中に遊学しています。
備中松山藩(今の岡山県高梁市)の山田方谷の私塾に寄宿しています。
この事から、30年近く前の事になりますが、高梁市に行った事があります。
余り時間がなかったので、松山城に上っただけでしたが。
河井継之助は、軍事的な才能が豊かな人物であった事は間違いなさそうです。
中立を目指した時に武器を調達しましたが、
その中には、ガトリング砲も含まれていました。
レンコンのような弾倉を手回しで回して発砲する、初期の機関銃です。
幕末の日本では3門きりなかったとの事ですが、
その内2門を長岡藩が所有していました。
長岡城は一度官軍の手に落ちますが、これを河井は奪還しています。
この時の戦術を、旧陸軍の参謀として有名な石原莞爾は、
陸軍大学校の卒業論文で取り上げ、詳細に研究しています。
この攻防戦の最中に、流れ弾が膝に当たって重傷を負います。
このため、越後から会津に八十里峠を越えて向かいますが、
会津領に入った塩沢村(現在の只見町)で死去しています。
河井継之助は僕の好きな人の一人で、
もう少し調べてみたいと思う人です。
その誕生日と知って、思いつくままに彼を偲んでみました。
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