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2014年12月30日07:08

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あきる野市さんぽ「増戸北西部・大悲願寺と横沢入(里山保全地域)」

あきる野市さんぽ「増戸北西部・大悲願寺と横沢入(里山保全地域)」

○「薬師堂」(伊奈)
五日市線武蔵増戸駅から踏切をわたり、森ノ下の信号を左ななめに進むと「薬師堂」があります。少し判りにくいところにありますが、本尊は厨子に入った丸彫りの石の薬師如来坐像で、眼病によいといわれており、今でも周辺の人々の信仰を集めています。昭和58年に地元の人々によってお堂が再建されました。
http://s.webry.info/sp/tama-kosatsu.at.webry.info/200911/article_4.html

○「松岩寺」(伊奈376)
薬師堂から北に向かうと「松岩寺」(しょうがんじ)があります。創立は延文2年(1357)で、開山は戸倉光厳寺桂岩円楚禅師、開基は不詳です。慶安2年(1649)徳川家光より阿弥陀免として高5石が寄進され、以後代々同高の御朱印を賜っていました。社域を地元産の伊奈石で高さ4mほどの石垣で囲い、あたかも当地豪族の館跡とでも思わせる印象を与えます。大きなドウダンツツジや白萩、ヒガンバナの群落なども見ることができます。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1460
【上平井館跡】
ここ松岩寺に館跡がありました。『城郭大系』には、「上平井館」として後北条氏に仕えていたと考えられる平井氏の居館ではないかとの記述があります。館は伊奈の地の中心地にあり、小田原への主要街道の宿駅が設けられていたとのことです。松岩寺は伊奈城の東麓にありますが、上平井館は伊奈を統治する豪族の館と考えられます。
http://ameblo.jp/napo-jou/entry-11525009560.html

○「伊奈城址(比郷神社)」(伊奈)
「伊奈城」は松岩寺の裏山にあり、松岩寺の西方の配水場への道を上がって行くと「比郷神社」があります。昭和54年春に中田正光氏によって確認された城砦ですが、史料は皆無で城主など一切の歴史も不明です。現在、主郭跡に北郷神社が建ち遊具の整備された公園となっています。周囲を探索すると、大きな竪堀状の溝や腰曲輪らしい平坦地が存在し、人為的な改変の跡が残っています。当地の歴史・地理からして後北条氏の城郭であり、戦国時代、北条氏照によって支配を受けた時代に築城されたものと推察されます。甲斐武田氏に対する城郭として、永禄10年(1567)頃に始まり、天正18年(1590)の後北条氏滅亡まで存続しましたが、そのまま廃城になったと考えられ、秋川渓谷の出口を封鎖するだけの目的だったとされます。境内の主郭と思われる最高地は郭となっており、その下には帯状の平場も見られます。また、背後の尾根に堀切は無いものの、裏手に根小屋とも思える広い平地があります。『多摩丘陵の古城址』によれば竪堀が残っていたとされますが、現在は明瞭でありません。
http://atenzasports23z.blog.so-net.ne.jp/2010-04-09
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/001tokyo/144ina/ina.html

○「龍性寺」(伊奈1343)
比郷神社からの西に向かうと、あきる野教会(カトリック五日市霊園)の西側に「龍性寺」があります。摩尼山と号し、横沢にある大悲願寺の隠居寺でした。天文10年(1541)大悲願寺10世有雅法印退院の時、庵室として開創されました。本尊は高さ1尺余りの勢至菩薩立像です。
http://www.otelife.com/showTemple/summary/pk/15256

○「大悲願寺」(横沢134)
龍性寺の西に横沢入への入口がありますが、先にその先にある「大悲願寺」に寄ってみました。大悲願寺は、源平合戦で名を馳せた日野の武将・平山季重が建久2年(1191)、源頼朝の命により建立した由緒のある寺です。通称ハギ寺。国指定重文をはじめ、伊達政宗の白萩所望状など都・市指定文化財など多数あります。説明板に次の説明があります。
《かつては末寺32か寺を有した大悲願寺は約1400年の昔、聖徳太子が全国行脚の際にこの地に一宇の草堂を建てたのが当山の起原といわれ、現在も寺の背後の山頂には、「草堂の入」と言う地名が残っている。史実によれば、建久2年(1191)源頼朝の命により、京都醍醐寺澄秀僧正を開山として平山季重が建立した。正平9年(1354)には鎌倉公坊足利基氏、氏満より寺領20石を賜り、明治維新まで受け継がれた。歴代住持では中興の祖四世澄遍、徳川家康の信任厚かった13世海誉、木活字を彫って活版印刷を行い経本を作った24世如環、そして猊座につかれた密教学の大家34世精神等の業績は特筆される。15世秀雄は伊達政宗の舎弟といわれ、その縁で当山を訪れた政宗は境内一面に咲く白萩に心を引かれ、後日一株所望した書簡(都文化財)が現存している。現在も9月にはその白萩が境内一面花を咲かせている。》
また、見どころとして次の説明があります。
《白壁を両袖にした寛文9年(1669)建立の仁王門をくぐると樹齢500年を越える大杉に囲まれた境内正面に極楽、地獄のみごとな彫刻をほどこした無畏閣(※後述)が建ち、堂内には国指定重要文化財、阿弥陀如来三尊像が安置されている。元禄8年(1695)建立の講堂(都文化財)は寄棟造りの六つ間取り方丈系書院造りの本堂で、堂内には木彫座像の金剛界大日如来を奉安している。太閤秀吉よりの禁政令をはじめ古文書、聖教類10,335点が都文化財として所蔵されている。本堂前の鐘楼には寛文12年(1672)鋳造による梵鐘がある。2月の梅、4月のつつじ、5月の牡丹、8月の百日紅、9月の白萩と四季おりおり境内に咲く花も見事である。
※大悲願寺無畏閣は、寛政6年(1794)建立。堂内には平安後期の作といわれる国指定重要文化財・伝阿弥陀三尊座像が安置される。これら三尊像はいずれも木彫寄木造り漆塗り、全体に金箔がおかれた平安末期の特徴を示す。簡素ではあるが優雅さの漂う関東地方最傑作の美術品といわれている。毎年4月21日御開帳。》
【五輪坂の五輪地蔵】
大悲願寺の境内は広く、旧五日市街道に面する百余り石段を登れば、南面して重層の仁王門があり、中門の奥に鐘楼と本堂があります。正面の石段は急峻であるので、別に西方からの間道があり「五輪坂」といわれています。この間道の途中に、南面して舟型光背の面に浮彫りした五輪地蔵と五輪塔があります。五輪とは、空風火水地の五行を象った羽状の翼のごとき光背ある形をさしての総称です。五石からなるものはこれを五輪塔といいます。あきる野市油平の福徳寺、八王子市西寺方町の宝生寺、東大和市清水の三光院などに、大悲願寺の五輪地蔵にやや似た塔があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%82%B2%E9%A1%98%E5%AF%BA
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1453
【愛宕神社】(横沢127)
大悲願寺の西方に「愛宕神社」があります。祭神は軻遇突智命(火神)。旧横沢村鎮守で創立は不詳。古くは愛宕大権現と称しましたが、明治2年に社号を改めました。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/d85128c73da71e68548066b9c79dd4fc

◎『横沢入(里山保全地域)』
龍性寺と大悲願寺の間、南に秋川を見下ろす丘陵地に「横沢入」の里山保全地域があります。48.6haほどの面積で、東京都で最初に「里山保全地域」に指定されたところです。横沢入への入口から道を辿って奥へと進むと、周囲には谷戸地と里山とが織りなす緑濃く長閑な風景が広がっています。横沢入は来訪者のためにさまざまな整備が施され、少しばかり観光地的な雰囲気も漂います。整備が行き届き、案内図や道標などが設置されており、里山散策に不慣れな人でも安心して訪れることができます。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1455
http://www.mentor-diamond.jp/student/?p=33137
○「横沢入の入口の庚申塔」
横沢入への入口は分かりづらい場所ですが、良く見ると入口の分岐には古くて小さい「道しるべ」と案内板がそっと立っています。人家が並ぶ少し手前に3体の石仏が並んでいます。向かって右の端が珍しい「角柱型庚申塔」です。庚申塔の前の谷に土管で水がでています。管理拠点の立つところから中央の路にそって奥に棚田が広がっています。しばらく進むと車止めがしてあり「林道小机・横沢線」の看板があります。入り口付近からこの辺りまでを「中央湿地帯」と呼んでいるようですが、この中央湿地帯の両岸に多数の支谷(谷戸)が走っています。

○「横沢入の谷戸」
横沢入の谷戸は、七つの小谷戸から構成されており、小谷戸には「草堂ノ入」、「富田ノ入」、「荒田ノ入」、「宮田西沢」、「宮田東沢」などの名があります。それぞれの小谷戸の奥部からは湧水が流れを作り、それらが集まって小川となって秋川に注いでいます。谷戸には耕作地や池があり、そこではホトケドジョウやゲンジボタル、キンランやエビネなどの、今では貴重となった動植物の姿を見ることができます。この辺りの地形図は、次(↓)をご覧ください。
http://www.taishin.metro.tokyo.jp/yuso/pdf/09KC964.pdf
【横沢入】
平成12年に東京都環境局が行った「多摩地域の谷戸の保全に関する調査」で、自然の豊富さ等の項目によってランク分けされた都下の谷戸地で、5つしか選ばれなかったAランクの一つがこの横沢入です。かつては棚田が広がり、炭焼き小屋や畦が縦横に走る多摩の原風景そのものであったそうですが、次第に離農が広がり荒れ地と化して行く土地の再利用の観点から、旧五日市町(現あきる野市)主導で大規模な宅地開発が計画され、大部分をJR東日本が取得し1000戸に上る造成を行う計画が進行しましたが、住民やNPOの熱心な勝が実り、この計画は撤回され、その後は東京都の里山保全地区第一号としてNPO法人「タンボの会」を中心に守られることとなりました。さすがにAランクの谷戸だけあって、その景観と自然の豊富さは感嘆するほか無いといえます。多数のトンボをはじめとする昆虫類、オオルリやオオタカといった鳥類、トウキョウサンショウウオ等の水生動物や植物と、この地域に東京都の自然の大半が凝縮しているのではないかとすら思えます。
【宮田西沢】
横沢入の支谷の一つで、その一帯を「宮田」と呼んでいたことから、西側を「西沢」、東側を「東沢」としました。この谷戸は奥へと続く道がしっかりしており、探索に入る難易度も荒田ノ入などよりは低く、中央湿地帯だけで飽き足らない向きには良いコースです。下流部にはため池が設けられており、多くの昆虫や鳥類の水場となっています。池ノ中に枯れ草があることから、荒れ地をせき止めて水を集めた造りだろうと想像できます。ちなみにここは、かつては農地より石切場としての用途が中心であったようです。この地域では「伊奈石」という石材が産物となっており、その石を切り出した石切場がこの谷戸の奥に残っていそうです。
【荒田ノ入】
横沢入の支谷の一つで、中央湿地帯最奥部の分岐にあたります。この辺りから中央の路(林道小机・横沢線)は山道の様相を濃くしています。この谷戸は、山中の急峻な峰に挟まれた非常に細く小さい支谷になっています。かつては水田が奥まであったといいますが、名前からしても往事から既に荒れ地が多い場所であったようです。現在は湿地の色合い濃い完全な荒れ地となっており、奥に入るのはかなりの危険があります。横沢入では保全地区に指定されていない支谷でも、路と足場の草刈りは綺麗に行われている場所が多いのですが、この荒田ノ入はそれも行われておらず、どこまでも荒れ地で踏み込むものもためらわれます。

○「石山の池(石切場遺跡)」
横沢入の「中央湿地」から「石山の池」(天竺山への途中)のコースを上ってみました。谷戸道の奥に進むにつれて両側から山肌が迫ってきて日は差さず、辺りは相当薄暗くなります。その上、道は雑草が繁茂する湿っぽいものとなり、道には到るところ朽ち果てた丸太がゴロゴロ転がっています。ここは石山の池から切り出した伊那石を、丸太を使って運んだ道筋なのでしょう。しかし、このルートは最終的には崖を上る必要があること、またマムシの活動時期には危険を伴うことから避けるのが得策と思われます。池は見あたらないなと思っているうちに、「富田ノ入」(横沢入の一区画)の方向を示す標識があり、その先に石山の池があります。この辺りが「石切場遺跡」といわれ、もっとも深く掘りこまれたところは底に水が溜まり石山の池と呼ばれています。採掘された石の残骸が池の中にも、周囲の山肌にも無造作に散乱しています。江戸中期延享年間に描かれた絵図にも、この池は描かれており、当時すでに大量に石が掘られていたことがわかります。室町時代から江戸時代にかけて採掘された生々しい石切場跡を見ると、鳥肌が立つ思いがします。池のほとりに「山神社」の石塔が1基ひっそりと立っていて、石工達が安全を祈願して造立したものと思われます。森閑とした山の中で、このような光景を一人佇んで見ていると不気味な感じさえします。
http://www.ab.auone-net.jp/~inaishi/bunpu.htm
http://www.satoyama-club.jp/diary/date/0312.htm

○「天竺山(三内神社の奥の院、標高310m)」
石山の池を後にして天竺山山頂を目指します。道標に従い、高圧線鉄塔を左に見て細い急坂を上りきるとそこが標高310mの天竺山(城山)山頂です。山頂はそれなりの広さの平坦な土地で、その一角に質素な三内神社の奥の院(旧三内村の鎮守)が建っています。北から東側にかけては樹木が払われ、横沢周辺の山並を遠望することができます。南側の石階段の参道を見下ろすと杉桧林の中を遥か下まで続いています。
【阿伎留城址】
天竺山の山頂にあった阿伎留城は、在地土豪の三内孫四郎綱遠によって築かれたといいます。阿伎留城について唯一詳述されている『多摩丘陵の古城址』で、著者は「南一揆の中心であった小宮氏の本拠ではないか」と推測しています。
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/001tokyo/045akiru/akiru.html
http://blogs.yahoo.co.jp/lunatic_rosier/60670850.html

○「三内神社」(三内190)
南の石段の参道を下り、三内へと下って行くと「三内神社」があります。創立起源不詳。社伝によれば、天武天皇の御宇に10座を奉斎し、桓武天皇の延暦24年(805)6月12日に社殿を造営とあります。享保3年(1718)、山麓の畑中にあった社殿を天竺山の山頂に遷しました。昔は秋留郷三宮村三ノ宮大明神と称しましたが、三ノ内村と改称され、社号を三内神社と称するようになったといいます。
http://komainumeguri.blog.fc2.com/blog-entry-783.html
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/0d4e6a2d80327b7e6d5fd9659a64e9f5

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