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2014年12月29日07:33

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あきる野市さんぽ「網代三山 (弁天山・城山)ハイキング」

あきる野市さんぽ「網代三山 (弁天山・城山)ハイキング」

◎『網代三山 (弁天山・城山)ハイキングコース』
ファミリーなどで気軽に自然が楽しめるハイキングコース。弁天山は標高300mほどの山ですが、豊かな自然が残り、春はムラサキツツジや山桜、秋は紅葉に彩られます。また小峰公園では、野草の観察など自然の中での学習体験ができるほか、春は桜も楽しめます。あきる野市にある「網代城山」「網代弁天山」「花見山」の三山を称して、「網代三山」というそうです。標高が低くスケールが小さい山ですが、なかなか楽しいハイキングコースです。
コースは、武蔵増戸駅〜弁天山〜城山〜天王橋〜前山公園〜小峰公園〜武蔵五日市駅です。歩行時間2時間30分。
http://tokyo-tozan.com/tozan/aziro/
http://tyatya0919.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_83d9.html

○「山田八幡神社」(山田477)
五日市線武蔵増戸駅から南に向かうと、山田大橋の手前に「山田八幡神社」があります。大橋の東側を下って行きます。祭神は応神天皇で、山田村上分の鎮守です。社伝によれば、文和年間(1352〜56年)に足利尊氏の家臣・景山大炊助貞兼によって創建されたもので、瑞雲寺が別当であったといいます。かつて8月15日の例大祭は「十五夜八幡」といわれました。
【湧水】
この神社に湧水があります。井戸枠から流れ出ているのですが、おそらく湧水だと思われます。
http://komainumeguri.blog.fc2.com/blog-entry-786.html
【山田獅子舞】
9月の第1日曜日に演じられる獅子舞で、この神社のほか地区内の天神社などでも演じられます。
http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/50779393.html

○「瑞雲寺」(山田496)
山田八幡神社の西隣に「瑞雲寺」があります。網代トンネル入口を前に、秋川に架かる山田大橋から見ると、上流方向に端雲寺が見下ろせます。足利基氏の母・瑞雲寺殿喜渓祈大姉が開基となり創立し、常州水戸高岡の法雲寺開山大光禅師復庵宗己を請じて開山としました。大光禅師の没年から推測して南北朝の文和年間(1352〜55年)前後頃と考えられます。昭和41年の大風で本堂、古裡が倒壊しましたが、昭和50年に完成しました。寺院には珍しい水琴窟があり、涼やかな音色が楽しめます。足利尊氏公坐像はあきる野市指定文化財になっています。また、建武2年の板碑があります。この山田村の地名の起こりは、『新編武蔵風土記稿』に紹介されており、「山田村ハ其地名ノ起リヲ尋ルニ村内瑞雲寺ノ開基瑞雲尼ハシメ勢州山田慶光院ニ住シテソレヨリ當所ニ移住アリシユヘカノ勢州ノ地名ヲコヽニウツシテ山田ト號スト云」とあります。
【湧水】
寺の奥の崖から湧水が湧き出し、湧水池を成しています。
http://www.youtube.com/watch?v=w3ayLnjBq3Y
http://mikiomonya.jugem.jp/?eid=71

○「網代橋」
再び山田大橋北詰まで戻り、秋川に架かる網代橋に向かいます。山田大橋北詰には、かなり古い石の道標があります。さりげなくこういうものが残っているのが素晴らしいですけど、左右は判りますが、文字が読めません。下って行くと、網代橋を渡った場所にお地蔵さんがあります。

○「禅昌寺」(網代241)
網代橋から上って行き東へと向かうと、網代ホームきずなの先、弁天橋の手前に「禅昌寺」があります。創立は大永7年(1527)、開山は天甫鏡岩禅師、開基は不詳です。網代には妙台寺という寺があり、貴志嶋神社の別当寺として同社の祭祀を行なっていましたが、明治初年に禅昌寺へ合寺されています。本尊の聖観音菩薩は俗に「枕返し観音」といわれています。
http://loco.yahoo.co.jp/place/b8f609ee54570ef78c65a5682375dbb15dae8c9d/

○「地蔵菩薩」(網代)
禅昌寺から少し戻ると網代ホームきずなの南に、二基のお地蔵さんがあります。その一つに、文禄11年(1698)の地蔵菩薩があります。『五日市の石仏』には「本願野嶋五兵衛」とありますが、今は読めません。野島五兵衛は網代の名主です。

○「貴志嶋神社」(網代83)
少し戻り左の弁天山への道に入ると、「貴志嶋神社」の入口となり、庚申塔があります。ここから赤い鳥居を潜り、山道の参道を上ります。右に弁天山の山頂への道を分け、少し下って行くと弁天山の東中腹に、貴志嶋神社が祀られています。旧網代村の鎮守で、創立は不詳。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 。明治2年までは貴志嶋弁財天と称し、明治3年に現社号に改称しましたが、俗に「網代の弁天様」と呼ばれています。村内の妙台寺(廃寺)が別当。山を背にした社殿の後側の石垣の上には、文化年間(1804〜17年)の石祠と、ボーリングの球ほどの大きさの石の玉が祀られています。
【弁天洞窟】
さらに道標に従い山道を上ると、弁天山の山頂の真下にあたるところに、奥の院の「弁天洞窟」と呼ばれる岩窟があります。入口はあまり大きくありませんが、入ってみると洞内は意外に広く、二間四方だそうですが真っ暗です。奥には、左に大黒天像、中央は燈籠、右側に毘沙門天像が祀られています。洞窟の外にある説明板によると、毘沙門天石像は無銘ですが、大黒天像は背面に「文明9年(1477)丁酉閏正月6日」の記銘があり、おそらく主尊として弁財天像もあったと推定されるそうです。『新編武蔵国風土記稿』には、「毘沙門大黒などの石像を置く」と記されていて、江戸時代にはすでに弁財天像はなかったのではないかと思われます。また考古学調査によって、洞穴内から須恵器の欠片が発見され、この岩窟は先住民の居住祉とも考えられるそうです。
http://risshi.life.coocan.jp/cubkh17.html
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/793b2784477836aa19f9cea78de246dd
【秋川昔物語・大蛇の通った跡】
秋川昔物語に、次の「大蛇の通った跡」があります。
《昔、雨間の雨武主神社の神さまが、網代の弁天さまに用事ができて、網代まで出かけることになりました。弁天様の住まいがある弁天山は、雨武主神社がある山の西にありました。神さまは、今までに何回か弁天山に行ったことがあり、その道順は秋川の北の原っぱを通っていました。弁天山に行くのに、いつも同じ道ばかり通っていた神さまは、「たまには違う道を行くか。秋川谷をさかのぼってもいいし。」と道筋をあれこれ考えました。「道が悪いかもしれないが、峰伝いに行ってみよう。この方が一本道だし、他の道を行くより早く着くだろう。」神さまはそう思うと、大きな蛇になって山を降りると西にある山に向かいました。山の上に来ると、そこには尾根道があって弁天様の方へ続いているようです。神さまは、どんどん進むことができました。しばらく行くと、谷に出会いました。向こうの山へ行くには、谷の底まで降りて、また登らなければなりません。神さまは、「仕方がない。下まで行くか。」とひとり言を言いながら、谷を降り、谷を登りました。そこには尾根道がありました。神さまは、谷があったために暇をかいてしまったので、いそいで行くことにしました。ところが、また谷に出会いました。今度の谷は、前の谷より深く、降りたり登ったりするのに暇がかかりそうです。神さまは、「この先、いくつ谷があるかしれない。峰を行くより裾の方を通って行こう。」と考え、少しばかり谷に下りると、向きを変え、木や草が生えている山の中腹にはいって行きました。後には、木や草が西を向いて倒れていました。その後、神さまが通った跡は、木や草が生えなくなり、地肌を見せるようになりました。》

○「弁天山(標高292m)」(網代)
弁天洞窟からさらに山道を上って行くと「弁天山」の山頂に着きます。弁天山は標高292mで、それほどの高さはありませんが、頂上付近は春にムラサキツツジや桜が咲き乱れ、三つ葉ツツジの群生地としても知られています。晴れた日には、秋留台地から遠く都心のビルまで見渡すことができ、手軽なハイキングが楽しめます。
http://www16.plala.or.jp/toy-hospital/index09/index098.html

○「網代城山(標高331m、網代城址)」(網代75)
弁天山から北に下って行くと、網代城山への登山道があります。坂も段々きつくなり、階段がどんどん増えていきます。そこを乗り越えるとパッと開けた場所、やや広い平場の「網代城山」(標高331m)の山頂に着きます。山頂からはやや木々に遮られるものの、非常に眺望があります。晴れた日には、秋川・昭島方面はもちろん、はるか遠くにさいたま新都心や横浜ランドマークも見渡せます。
【網代城址】
山頂一帯は「網代城址」で秋川丘陵自然公園となっており、空堀の跡が城の面影をとどめています。三角点の横には山名板と網代城址の説明板があります。説明板には、曲輪や堀切の場所を記した地図が描かれています。
説明板によると、重税を一時的に逃れようと近在の農民が利用していたのだとか。これもあくまで1つの説だというのですが、この農民の集まりこそ「武州南一揆」といわれ、在地土豪達の集合体です。彼らは特定の勢力につくことはなく、その時の状況により立位置を変えて生き延びました。代表的な例が1416年にあった上杉禅秀の乱。この乱では当初禅秀方であった南一揆も、旗色が悪くなると幕府方に寝返りました。きっとこれだけが原因ではないのでしょうが、禅秀は敗れてしまいました。その後、あきる野一帯は武蔵守護代の大石氏の勢力範囲となります。大石氏は領国経営が苦手であったといわれており、南一揆は独自色を保ち続けていました。1546年に後北条氏が扇谷上杉氏を滅ぼすと状況が変わります。大石氏も他の勢力同様に後北条氏の軍門に降りました。そのため、その旧領は安堵されたものと思われます。しかし、1559年に後北条氏は大石氏の乗っ取りを図ります。北条氏康の3男・氏照を大石氏の養子にして家督を継がせたのです。この直前頃から、後北条氏は南一揆の解体を進めました。ある者は所領を安堵され、またある者は滅ぼされ、この頃から大石氏の前当主・大石定久の消息がわからなくなります。名族の当主が没年すら不明なのですから。網代城が北条氏により整備されたのは、1567年頃だと思われます。この頃から、檜原街道沿いに烽火台ネットワークを整備する動きがありました。西端にある檜原城から約5kmおきに整備しており、網代城は戸倉城の東約5kmのところにあります。結局、武田信玄は別のルートから攻め込んだようで、役に立つ機会はありませんでした。烽火台として位置づけられたであろう網代城。その警備?には、南一揆出身の貴志氏や高尾氏が当たったそうです。1590年に後北条氏が滅びたことで、その役割を終えました。
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/001tokyo/046ajiro/ajiro.html
http://utsu02.fc2web.com/shiro798.html

○「高尾神社」(高尾660)
網代城山から「高尾神社」への道標に従って北西へと下って行くと、高尾神社の前に着きます。高尾神社の祭神は迦具土神で、寛文年間(1661〜73年)の検地帳に「除地一反二畝」とあるのみで、創立起源・由来は明らかではありません。境内にある欅造り朱塗りの古社は、軍茶利明王祠です。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/ae7721c6bef43b504b479c4dd8f29a5f
【高尾の獅子舞】
9月9日前後の日曜に、高尾神社で「高尾の獅子舞」が奉納されます。
http://homepage3.nifty.com/tamanokyodogeino/nishitama/akiruno/takao/takao.htm

○「大光寺」(高尾218)
高尾神社の北に「大光寺」があります。本尊は十一面観世音菩薩。戦国時代の文亀2年(1502)、上杉・武田・北条などの群雄の争いの渦に巻き込まれていた当高尾村の領主平山氏は、大悲願寺9世憲伝の弟子秀等法印に請うて、不動明王安置し祈願所としました。この堂は明王院と名付けられました。その数十年後、平山摂津守明克は西の岡に一堂を建て十一面観世音菩薩を祀りました。開山は、寛永9年(1632)第五世賢照法印は明王院に十一面観世音菩薩を移し、不動尊を鎮守として大光寺と号したのが始まりと伝えられています。多摩八十八ヶ所第60番札所。
http://itukaiti.blog.so-net.ne.jp/2013-09-25

○「高尾公園」(高尾237)
大光寺の西に「高尾公園」があります。秋川沿いのカタクリとニリンソウの自生群生地の公園です。
http://blog.goo.ne.jp/mitsu-asaba/e/926ba459da553022ac7e08dd233dafdf
http://blogs.yahoo.co.jp/nkl3doai/8610445.html

○「留原八坂神社」(留原320)
高尾公園から南西に向かうと小峰公園があります。小峰公園のビジターセンターの南に「留原八坂神社」があります。留原八坂神社は、須佐之男命・宇賀魂神を祀ります。江戸時代には牛頭天王社で、通称「天王さま」と呼ばれています。留原(ととはら)村の鎮守であり、天王山地蔵院が別当として奉祀していました。明治2年に稲荷社と第六天社を合祀して祭神が現在の4柱となり、昭和25年留原東1番地より現在地へ遷りました。
http://blog.goo.ne.jp/tekiro_babel/e/03797008597afd72590423f57b89cca8

○「小峰公園」(留原284)
「小峰公園」は、都立秋川丘陵自然公園内にあります。身近で豊かな自然とふれあいながら、手軽にピクニックやハイキングを楽しめる野外レクリエーションの場となっています。里山、桜の尾根、オニヤンマ、ノウサギ、ホオジロの5つのフィールドに分かれていて、身近に自然に触れ合うことができるレクリエーションの場として、また、園内にある田んぼを利用して、田植えから稲刈りまでの作業を体験できるイベントを行っています。ビジターセンターでは、園内の自然を紹介した展示や、解説員の説明を受けながらのスライド観賞、野外で自然とふれあう体験学習も楽しめます。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1445
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Akirunoshi/Komine/Komine.html
【八王子往還】
小峰公園内の留原八坂神社から南に向かって伸びる桜尾根の道は、「八王子往還」という古道の名残です。桜尾根は、名前の通りサクラの名所です。公園内には、当時のものと思われる「庚申塚」や「馬頭観音の石碑」があります。車道(秋川街道)ができるまで、この細い道に八王子〜五日市間を行き交う人や荷馬車が通っていました。しかし、八王子往還は公園から先も街道の痕跡が伸びているものの、馬頭観音の石碑のあるところには、今熊山への道標はあるものの、直進する八王子往還への道標は、この先「倒木多く危険 通行止」と記されており、この道標があるもののその先に入ってみましたが、やはり途中で街道は廃れており、通り抜けることはできませんでした。まったく廃れてしまっています。
【馬頭観音の石碑と旧都道】
公園の案内図に、よく見ると「馬頭観音」と「旧都道」があります。馬頭観音の石碑には文政5年(1822)年と彫られており、小峰峠を経て八王子市上川口へぬける旧道の三叉路に立つりっぱな文字塔です。右折すると小和田の広徳寺方面に至ります。馬頭観音があるということは、その昔、馬の背に荷を乗せて人が歩いていた証です。そして昔、都道になっていた道であればなおさら旧道の可能性があります。旧都道は、新小峰トンネルの上を通り、旧小峰隧道へ繋がる旧道に沿って馬頭観音の石碑へと続いていました(ハイキングコースあり)。また、馬頭観音の石碑から東に行くとすぐにあずま屋があり、ここからの眺望は素晴らしいものです。
http://www.cec.co.jp/freeway/komine_park/
【旧小峰峠】
八王子市とあきる野市の境界にある「旧小峰峠」は、過去の忌まわしい宮崎勉事件の現場となった場所でもあります。平成14年に新トンネル完成と同時に廃道となり、現在は歩行者専用の遊歩道として新たな人生を歩んでいます。心霊スポットとして人気のある?旧小峰隧道ですが、それは大正5年に竣工されました。ここは、八王子往還と呼ばれた立派な街道だったので、それ以前はトンネルを使わずに峠越えをしていたはずですが、それが小峰公園の馬頭観音の石碑から南に延びる道のようです。
http://members3.jcom.home.ne.jp/toono/pass/komine.htm
「小峰峠の幽霊(宮崎勉事件)」
http://std2g.web.fc2.com/yu-rei/yu-rei.html

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