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2014年12月14日06:44

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福生市さんぽ「玉川上水橋めぐり・新堀橋から平和橋」

福生市さんぽ「玉川上水橋めぐり・新堀橋から平和橋」

○「新堀橋」(福生1748)
福生駅から玉川上水の「新堀橋」に向かいます。その昔、玉川上水は羽村境の「官林稲荷」から右手を多摩川沿い「宝蔵院橋」(現宮本橋)に水路が続いていました。この間の約360mの所が大水の度に上水の土手が崩れ、そのつどの復旧工事費用は並々ならぬものでした。元文5年(1740)の夏、幕府は思いきって上水の堀替え工事を断行しました。この工事は大変な難工事で、いろいろな逸話もあり、地名から「馬喰橋」とも「神明橋」とも呼ばれました。今は歩道や欄干に趣向を凝らし、6月には優雅な蛍の舞う姿が見られて、新東京百景にふさわしい風情があります。
http://blogs.yahoo.co.jp/saizebaito/43558221.html
http://www.buyo-gas.co.jp/exchange/public/jousui/jousui03.html

○「加美上水橋」(福生1218)
昭和2年、大正天皇の陵墓「多摩御陵」造営のため、多摩川石の採取が行われました。この輸送のために福生駅から羽村境(福生河岸駅)までの1.8Kmの砂利運搬用の鉄道が布設され、当時は青梅電気鉄道株式会社経営の「青梅線」でしたが、昭和19年4月1日国鉄に買収移管されました。造営終了後も砂利採取は続けられましたが、昭和37年2月10日貨物線としての使命を終え廃線撤去となりました。この時、玉川上水に架けられた鉄道橋は「ガード」と愛称され、廃線後もそのまま人々に利用されていました。昭和59年10月1日新堀橋付近の玉川上水風景が「新東京百景」に選ばれ、平成2年11月1日周辺を「玉川上水旧堀跡」と福生市史跡に指定され、「加美上水公園」の開園などから、本橋の改装架替の機運が湧き、欄干のパネルその他に趣向を凝らし、橋名を現在の名に改めました。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2010-02-04
http://www7b.biglobe.ne.jp/~capsulepla/rail/fussa/f03s.html

○「宮本橋」(福生1210)
江戸時代は「宝蔵院橋」と称えていました。中世に創建されたという「真義真言宗巡光山宝蔵院」門前の玉川上水に架けられたので、寺名を冠した橋名でした。その後明治2年、住職憲道は時勢を洞察して還俗し、宮本豊恭と改め神職に転身しました。今は観音堂と墓地だけが残って、檀家の人達は改宗を余儀なくされて、神事によって祭祀を行っています。橋名もいつしか「宮本橋」と呼ばれるようになりました。かつては、名主家を囲んだ福生村の中心だった宿一通りとして、檜原・五日市・あきる野を経て、多摩川を渡り上江戸道に通じ、途中より箱根ケ崎・豊岡へも通ずることから往来も激しかったといいます。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2010-11-10

○「宿橋」(福生1181)
江戸期の地誌『新編武蔵風土記稿』「福生村」の項に、「高札場小名宿にあり」と記されています。「宿」とは名主家の屋敷を中心とした村内の一地域で、紺屋・味噌屋・足袋屋・さなぎ屋・下駄屋・屋根屋・鍛冶屋・車大工・酒造等の家々を含めた村一番の集落でした。「福生の渡し」を越えて、「上・下江戸道」「八王子道」「青梅」への道につながり、「下江戸道」の玉川上水に架けられたのがこの宿橋でした。粗末な木製の橋が、昭和11年12月に現在の鉄筋コンクリート造りの橋として竣工し、自動車専用橋として供用されてきました。平成5年度に至り、玉川上水に架かる橋梁であることからも、美観を十分考慮して旧態を尊重し修復されています。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2010-11-11

○「新橋」(福生676)
かつて五日市(あきる野市)方面から福生に通じる都道95号線は、たいへん狭く曲がりくねっていて、自動車がすれ違う時などは一旦停止しなければ通行できない状態でした。昭和32年9月28日に着工した都道第95号(五日市から所沢線)改修工事は、多摩川に架ける永田橋(長さ241.5m、幅6m)及び玉川上水に架ける「新橋」の二橋新設を主な工事として、その間を総延長316.4mの道路が昭和36年3月31日にめでたく完成し、4月25日落成式が行われました。現在は、都道第165号(伊奈・福生線)と改称され、また、新橋の現在の橋は、道路改修に伴い平成18年1月に架け替えられました。橋の西側道路沿いに、改修される前の親柱が残されています。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2010-11-29

○「清巌院橋」(福生660)
玉川上水を開削した時、上水堀が青梅街道と交差して、そこに出来たのが「清巌院橋」です。橋の南にある福生山清岩院からその名をもらっての橋名です。清巌院は、応永年中(1394〜1427年)の開創と伝えられる古刹で、小田原北条氏より「永四貫文の寄進」を受け、徳川幕府からも「寺領十石の御朱印」を受けていました。先年、「白鳳仏(古代・白鳳時代に製作された仏像)」の発見などからも由緒のほどが偲ばれます。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2010-12-12

○「熊野橋」(志茂30)
現在の「熊野橋」は、昭和56年3月に架け替えられたものです。熊野橋は承応2年(1653)、玉川上水の開削に際し村の農道として他の橋とともに民費で架けられました。この地は、村人が信仰する熊野権現を勧請した神域内を上水が貫流することから、熊野橋の愛称が定着しました。橋畔から、美しく連なる山並みを望み、上水の流れに群れ遊ぶ水鳥の風情など、四季を通じて変わらぬそして飽きない眺めが期待できます。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2010-12-24
http://blog.goo.ne.jp/home-goo/e/4e8c1db7e7d1dfbc33e41ae77a3a0978

○「萱戸橋(かやとばし)」(志茂25)
昭和49年4月、市立七小の開校により同学区に編入された志茂・牛浜地区の子どもたちの通学路として、地元からの要望に応えて竣工開通しました。橋名の「萱(茅)戸」とは、古来武蔵野に自生する萱野原を指したもので屋根を葺くのに用いる草木の総称で、チガヤ・スゲ・ススキなどをいいます。寛文12年(1672)ごろに、カヤト、カヤ立場の小字名が現れています。無人の萱野原を中福生、牛浜の次三男たちが開拓、村造りを始めたものと思われます。江戸末期ごろには「萱戸七軒屋」(井上・清水・村野各二家と木村家)と呼ばれていたとのことでした。橋を渡り、奥多摩街道を越えて南下する急坂を「ひよどり坂」といいますが、坂名の出所は不明です。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2010-12-27
http://blog.goo.ne.jp/home-goo/e/55442c5158be8a16a2f39ab05c508f92

○「牛浜橋」(牛浜27)
現在の「牛浜橋」は、昭和52年3月に架け替えられたものです。牛浜橋は、東京と秋川上流地域を結ぶ五日市街道に架かる橋なので、馬車や牛車の往来が頻繁なため在来の木橋では破損が多く、明治初期に新政府は東京市の近代化を図るために、熊本より石工を招き二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えました。これを見聞した村民が、明治10年12月に建設された牛浜橋は、「めがねばし」と愛称されました。平成4年度に行われた、玉川上水橋梁群整備では、牛浜橋は親柱や高欄に石と鋳物を用いて、歴史的背景を考慮した整備がなされました。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2011-01-16

○「青梅橋」(熊川879)
「青梅橋」の名は、古くから「青梅から羽村から福生から熊川から、拝島から柴崎から立川」を結んだ「青梅街道(成木街道の方の青梅街道とは別)」の道筋に当たることによります。旧福生村に属していたところは、現在「銀座通り」の愛称がつけられています。青梅橋は江戸時代、玉川上水ができた時、作場道を兼ねて作られました。青梅橋は、市道205号線へ通じるため自動車も通り、ここを通る道は現在「蛍通り」の愛称名が付けられて、恒例の初夏の「ほたる祭り」には近くの「ほたる公園」と結んで大にぎわいです。上水あたりを乱舞する蛍を眺める風物詩は、新名所として市民に親しまれています。
http://www.rurubu.com/season/summer/hotaru/detail.aspx?SozaiNo=130002
http://www.enjoytokyo.jp/life/spot/l_00004502/

○「福生橋」(熊川912)
昭和33年3月末に完成したのが幅15mの「福生橋」で、玉川上水に架けられた橋としては最大です。現在の新奥多摩街道は、熊川地区から福生・羽村・青梅を結ぶ幹線街路で、道路の貫通には難関がありました。昭和35年3月31日に、五日市線の警報機も取り付けられ、踏切も開通し、駅舎・ホームの改装も終わりました。福生橋及び路面の舗装等の整備も完了して、正式に都道に認定されたのは昭和37年頃でした。

○「山王橋」(熊川784)
かつて「山王塚」(熊川1307)と呼ばれる地(わらつけ街道方向)に、「山王大権現」の石塔がありました。「寛政6甲寅年(1794)」「現住融峯代造之」と刻まれていました。寺と塚を結ぶ里道に架けられたので、橋名となったものと思われます。塚の周辺は「山王面(約3町歩)」といい、延宝4年(1676)、旗本長塩氏知行地の「水帳(土地台帳)」に、「改出畑(新たに畑地として認定された土地)」と書き上げられ「下畑(土地の等級)」とあります。開発により宅地化した現在、この石塔は地主森田英男家(熊川605)の邸内に移され祀られています。山王橋はかつて、熊川村村有の「作場橋」で素朴な木橋で、昭和37年3月の架替前までは橋長10m、幅員2.7mでした。その後、さらに橋長16.5m、幅員6mに拡張されました。

○「五丁橋」(熊川807)
福生院の山門から奥多摩街道を越えて東に向かい、五日市線・青梅線の踏切を過ぎると玉川上水で、ここに架けられたのが「五丁橋」です。橋を渡ってハケ上の武蔵野台地の一角に「五丁山」と呼ばれた山林があったようで、これが橋名の由来のようです。定かでありませんが、かつて「念仏橋」と呼ばれた時もありました。昔、橋のほとりに「三界万霊塔」と刻まれた慰霊塔があり、入水者への供養の建碑と思われそれゆえの念仏橋とも考えられます。村持ちの作場道(さくばみち)でもあり、それまで幅3.60mのものを昭和39年3月に架け替え、長さ11.07m、車道6.70mのコンクリート永久橋としました。さらに東に向かって、わらつけ街道(国道16号線)と交差して殿ヶ谷(瑞穂町)に通じます。
http://blog.goo.ne.jp/home-goo/e/c058fe1ea2e7d5477e0c87af3f7c0499

○「武蔵野橋」(熊川1386)
国道16号線道路改修工事の結果、かつての日光橋は立体交差として総延長620m、幅員18mで、両端には歩行者の安全を確保するため2.5mの歩道が付き、昭和40年4月完成しました。国道16号線(通称日光街道)は、「東京環状線」とも呼ばれ、都市と都市とを結ぶ幹線道路のため近年非常に交通量が多く、ますます混雑が予想される交通量の緩和と、あかずの踏切解消のために、都と国鉄(当時)の手によって施工されたものです。鉄道を横断する部分は跨線橋となり、道路と鉄道が立体交差となって、スムーズな交通が行われて「武蔵野橋」と命名されました。晴れた日の眺めは、橋の上から富士を初め、奥多摩・秩父の山並みなどが素晴らしいものです。
【どんぐり橋(歩道橋)】
豊かな自然が残る武蔵野の雑木林と、それに沿って流れる歴史的価値の高い玉川上水とを、自然と市民とのふれあいの場として利用していただくために建設したのが「日光橋公園」でした。五丁橋際の「水喰土(みずくらいど)公園」から玉川上水沿いに設けられた散歩道で結ばれ、敷地内の雑木林はそのまま残し、静かに野鳥をみるために観察室で保全地域を区切りました。残りはピクニックや植物観察ができる「わんぱくたちのとりで」のある林、幼児用の遊び場、大きな木製ゲートのそびえるレンガ敷の憩いの広場、さらに橋を渡ると素手でも登れる巨大な岩山のある広場などが設けられて、一日中楽しめる素晴らしい公園ができました。歩道橋とはいえ「どんぐり橋」は、武蔵野橋の下流にあたります。
http://blog.goo.ne.jp/home-goo/e/558805c998340ae0c3995dd3aec353f8

○「日光橋」(熊川1423)
日光往還(国道16号線)に架けられたための命名ですが、「熊川下ノ橋、日光橋トモ云」との記録もあります。日光往還は、古来は相州大山参りの道者道でした。「八王子千人同心」が、慶安5年(1652)6月「日光火の番」役を命じられました。初めは、江戸経由で「日光道中」というコースでしたが、同年9月からは江戸へ向かわず八王子から直ちに拝島に入り、松山、佐野を通って日光に至る経路(日光往還、八王子千人同心街道)となりました。日光道中とは別個の日光街道でした。明治24年7月、日光橋の煉瓦橋への架替工事が完成しました。これより前、明治10年に川上の牛浜橋を太鼓型の石橋に架け替えるに際し、中心的役割を果たした石川彌八郎氏の配慮のもと、今度は煉瓦積みアーチ型として見事に竣工されました。橋長14.70m、橋幅9.20mです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%A9%8B_(%E7%A6%8F%E7%94%9F%E5%B8%82)
http://www.geocities.jp/annaka29jp/jyosuikoujyaku/6nikkobasi.htm

○「平和橋」(熊川1960)
熊川の玉川上水に、地元の明治男が私費でつくったという「平和橋」があります。橋畔の碑文は次のとおりです。
《この橋は地元の建設推進者のご尽力により昭和47年4月に完成し、福生市に寄贈された。平和橋のいわれは、世界の恒久平和を願う趣旨をもって「平和橋」と命名された。この度、平和橋の改修に当たり当時の橋名板等をここに残すこととする。》
この改修の結果、車道4.8m、歩道1.5mとなりました。もともとこの地は、拝島駅裏にあり、昭和43年5月15日、西武線の拝島駅への乗り入れによる北口の開設によって乗降利用者は激増します。このとき、製綿業の平林翁と建設会社社長の武田氏は、代償なしで長さ12.7m、幅4.0mの永久橋を建設しました。そして、同翁は、戦死された息子二人をしのんで「平和橋」と名づけました。同翁は、昭和55年11月23日に御死去され、享年90歳でした。
http://green.ap.teacup.com/kisuge/164.html

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