木曽川遡行シリーズ、8日目。
4月21日(日)
午前7時に起床。
女将さんのお話を聴きながら、旅館の朝食を食べる。
この「まつや旅館」は八百津で唯一の旅館だ。
明治時代から営業している。
戦争中は出征兵士の宿になった。
山奥に住む青年が兵隊に招集され、この旅館で一泊して戦場へ出て行ったそうだ。
いまは杉浦千畝記念館の関係でイスラエルやアメリカなどから泊まりに来る人も多いという。
旅館の本棚にはユダヤ教の書物も置いてあった。
おもしろい宿だったから、また泊まりにこよう。
午前8時、出発。
八百津の静かな街を歩いて行く。
廃業した酒屋、タバコ屋、八百屋などが並んでいる。
目を右に向ければ木曽川だ。
やがて町並みが途切れた。
旧八百津発電所資料館に着いた。
丸山ダムによる水力発電の古い施設は国の重要文化財になっている。
発電所本館は博物館に利用されている。
見たかったけど、また次の機会にする。
でもわたしは、博物館の古い建物よりも発電所のゴテゴテとした設備の方に萌えるぞ。
資料館から川沿いに緩やかな勾配を登っていく。
丸山ダムに到着。
木曽川最大のダムだ。
100mの高さがあるけど、さらに20mほど嵩上げした新丸山ダムが計画されている。
そのため河畔に敷かれている国道418号線は、新ダムが完成すると水没する。
だから今では整備されることもなく、通行禁止の廃国道になっている。
これからその通行禁止区間に入っていく。
民家がなくなり、道路が荒れてきた。
「通行止」の立て看板が現れた。
道路はさらに細くなる。
民家が建っていた跡があった。
新丸山ダムのために立ち退いたのだろう。
そこから奥の道は舗装もしていない。
道幅は2mぐらい。
ガードレールもなく、路肩が崩れたら木曽川にドブンと落ちてしまう。
車で来ていたら恐怖を感じながらの運転だろう。
でもわれわれは歩きなので、楽しいハイキング気分だ。
二股トンネルというところに着いた。
500mの長さがある。
暗闇の中を歩く。
ここは別名「朝鮮トンネル」と言われている。
トンネルの完成には朝鮮から強制連行されてきた人たちがたくさん使役されたからだ。
八百津の町には杉浦千畝の人道の丘公園があり、朝鮮人強制労働トンネルもある。
バラエティに富んでいるなあ。
正午過ぎ、通行止めのバリケードに着く。
ここまではなんとか無理をすれば車で走れる。
でもこの先は物理的に不可能だ。
この車両通行不能区間は約6キロ続いている。
バリケードの横を通り、さらに進む。
道はもう登山道のようだ。
忘れそうになるけど、これでも国道なのだ。
楽しいハイキングを続けていた。
地図上では八百津町から恵那市に入ったところ。
ここで突然、道路がきれいになった。
アスファルトがベッタリと塗られている。
まだ整備して間もないらしく、アスファルトが乾燥しきっていない。
ネットでの情報では、ここからさらに道が荒れているはずだった。
土砂崩れのガレ場を横断したり、階段のようなところを登り降りしたり。
あとで知ったことだけど、今年の3月に恵那市内の418号線は大改修をしたそうだ。
ということでどうということもなく恵那市側のバリケードに着いた。
2mほどの頑丈な柵で乗り越えるのに苦労した。
笠置ダムの横を通る。
やがて杤久保の集落が見えてきた。
ひさしぶりに見えた民家だ。
なかなか味わいのあるホーロー看板もあった。
集落を過ぎると武並橋だ。
今回はここで遡行終了。
午後3時だった。
さらに国道418号線を1キロほど歩く。
武並駅行のバス停にたどり着いた。
駅まで行けば中央線に乗って一時間で名古屋に帰れる。
バスを待っていると地元のおばさんが話しかけてきた。
八百津から歩いてきたと言うと
「若い人たちは元気ええ!」
新鮮な言葉だった。
これまでずっと尾張美濃方言の地方を歩いてきた。
名古屋弁に代表されるこの方言には特徴がある。
二重母音がリエゾンする。
ローマ字で書いて母音が続く場合、一つの母音として話される。
「ない」のことを「にゃぁ」と言うように。
だからこの場合「若きゃぁ人たちは‥‥」と言う。
八百津から山をひとつ越えるだけで関東甲信越の言葉になるのか。
そうだ、ここから向こうは木曾谷だ。
長野県も近い。
来月は木曽谷最南端の山である笠置山の麓を歩いて行く。
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