mixiユーザー(id:1082861)

2012年09月23日23:02

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メモ

アートマンの連続性を無条件に認めている限りで、原始仏教は輪廻も転生も認めなかったが、初期仏教教団が、仏陀の死後、教団防衛のために、インド思想に根強い輪廻の考えを受け入れながら、アートマンの連続性(死後の記憶、あるいは前世の記憶の否定)を否定したところに仏教の革新性を見る中村元などの仏教哲学解釈とは相容れない(上記前提だと仏教の中の際異端になるチベット仏教〜密教系の人だから当然だけど)ものの、なかなか面白い。

http://mandalaya.com/index.html

ただ般若心経の「見る」と「観る」の二元論は、インドの仏典で「みる」に相当する動詞が10以上あって、厳密な使い分けがされていることを考えると、かなり初心者向けのイメージ優先の議論に思える。

梵語のアヴァローキテーシュヴァラを、玄奘が「観音菩薩」と訳したのは、耳が(意図して耳を澄まさないでも)音を拾ってくれるように、現象界の諸相の本質を意図しなくても(音が勝手に聞こえてくるように)観て取れる菩薩という意味らしいけど、これは近年仏教哲学の側では「誤訳」と解釈されていて、主体的に物を自由に見て取れる菩薩「観自在菩薩」と訳し直されているはず。
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