16日木曜日は東福寺城跡から降りた後、祗園洲公園に赴きました。稲荷川河口北岸のこの地は室町時代から江戸時代にかけて大船係留用の桟橋が設けられており、琉球王国から薩摩藩への貢納船もここに来航していました。天文18(1549)年に来日したフランシスコ=ザビエルの上陸地もここだったと推定されているため、ザビエル上陸記念碑が建てられています。
ザビエル像は何故か磔(ハリツケ)状態です。薩摩の切支丹弾圧は厳しいようですなあ。wwww
上陸記念碑近くの海岸からは桜島を一望に出来ます。
桜島北岳です。
沖の小島です。
元禄14(1701)年から稲荷川河口南側が埋め立てられて上築地(カミツキジ)と呼ばれるようになりました。
一方、平安時代に稲荷川上流に素戔男尊(スサノオノミコト)を祭る京都祇園の八坂神社〔郷社〕が勧請(カンジョウ)されていましたが、享保9(1724)年に稲荷川河口北岸に遷座されたため祗園の地名が生まれました。
天保年間(1830〜44)に稲荷川が治水対策で浚渫された際に出た土砂で祗園沖に埋立地が造成されて祗園之洲と呼ばれるようになりますが、ここには嘉永6(1853)年に第11代藩主(第28代当主)島津斉彬の命で砲台が10座設けられました。
祗園之洲砲台跡〔鹿児島市指定史跡〕には石垣が残ります。
祗園之洲砲台は、文久3(1863)年の薩英戦争で最大の激戦地となった所です。
明治10(1877)年の西南戦争後、祗園之洲は官軍将兵の墓地になりましたが、昭和20年代の台風で荒廃したため、昭和30(1955)年に納骨堂、昭和52(1977)年に慰霊塔に改装されました。
祗園之洲は現在、祗園洲公園として整備され、肥後の石工岩永三五郎(1793〜1851)が甲突(コウツキ)川に架けた五石橋のうち、二つが移築されています。
三五郎の石像です。
高麗橋です。
玉江橋です。
他方、上築地の方は石橋記念公園となり、ここには、弘化3(1846)年に岩永三五郎によって甲突川へ架けられた西田橋〔鹿児島県指定文化財〕が移築されています。
当時、三五郎が甲突川に架けた五つの石橋の中でも西田橋は参勤交代の通路でもあり、鹿児島城下の表玄関として重きを成したので他の橋よりも丁寧に加工されていました。
鹿児島城の西田橋御門も復元されています。
石橋記念館も設けられて、甲突川五橋のみならず世界中の石橋に関する資料が展示されています。
《続く》
ログインしてコメントを確認・投稿する