mixiユーザー(id:64170)

2010年09月06日20:01

72 view

ノイズ、フラート考

 昨日の午後、ぼくのホメオパシーのアドバイスをしてくれているたまちゃんがやってきてくれて、ひさしぶりに話をじっくり聞いてもらいました。このところのホメオパシー騒動も、もちろん話題にのぼったのですが、そのたまちゃんが、ブログでこの一連のホメオパシー・バッシングについてのコメントを……

------------------------------------------------------

ノイズこそが、人を癒す(に〜やんの日々是好日)
http://niiyan.exblog.jp/13930806/

 知っている方も、多いと思いますが、最近のホメオパシーバッシング・・。様々な問題点をはらんでいて、このことに関してコメントするには、整理しないといけないこともあり、あまりコメントしてきませんでした。しかし・・・、実際、ホメオパシーをやっている以上、何もいわずに黙ったままでいることもできません。なので、少しだけ触れたいと思います。

 この問題には、大きく分けてふたつのことがあります。ひとつは、「医療ネグレクト」の問題。これは、ホメオパシーの科学性とか、有効性とは、直接関係ありません。治療者の誤った判断、つまり誤ったホメオパシー信奉というか、民間療法原理主義というか、必要な医療を受けることを拒むことに対するバッシングです。これに関して、報道したくなることには、一理あります。

 しかし、これもまたその背景には、それなりの理由があります。データ主義オンリーで、実際患者を見ない、不定愁訴を訴えてもわかってもらえない、治療を受けても実際よくならない、それに対するアンチ現代医療が、温かみのある医療を求めるのも当然の成り行きでした。しかし、今度は、アンチ現代医療、または極端な自然療法志向、またはスピリチャルな方向に走る人々が、今度は、必要な医療を行う眼を曇らせるのも、事実です。これは、どこまでいっても2極に走るばかりで、解決にはなりません。これは、これで深刻な問題なのです。

医療者の方々は、患者の切実さに、どれだけ近づいていっているのでしょうか。
そして、これは、ホメオパシーそのものとは、全く関係のないものであるという、冷静な判断をする報道が少ないのも、残念ながら事実です。

 そして、次にホメオパシーに対する科学性の問題のバッシング・・・。これもまた、あたかも、統計や数字で表せるものが科学であるという思い込みや妄想・・・そのデータ領域の科学が、ある表層をしか語っていないこと、その前提を無視して、あたかも、それがすべてであるかのような論調、狭い見識。

 データ以外のたくさんのノイズ。狭い見識の科学者たちは、それを邪魔だと排除してしまう。けれど、ほんとうは、そのノイズこそが、人を癒すのです。医療と科学は、決してイコールではない。そのことを、あるクライアントさんから教わりました。

 私たちは、いつの時代から、科学というものを、データに置き換えてしまったのだろう。いつから、目に見えない世界や、まだ知らない未知の世界に対する畏敬の眼を、曇らせていったのだろう。いつから、言葉にならないほどの微細な感受性の表現を、奪ってしまったのだろう。いつから、手にとって触れて感じるというリアリティを、失ってしまったのだろう。いつから、神話や個人の体験を、「荒唐無稽」と、軽視するようになったのだろう。

 だからといって、時代を逆戻りしろ、というものではありません。自然回帰しろ、といっているのでもありません。私たちは、ほんとうに進歩したのだろうか。進化しているのだろうか。いまいちど、自分自身に、問いたいのです。

 そして・・・ホメオパシーは、ノイズだらけの医療です。現代医療が、カスにも思わないものを、一生懸命、血眼になって拾い集める。きっと、滑稽にも見えるその努力を、そのほんとうの意味を、多くの人が知らずにいる。そして、そのノイズこそが、人を癒し、自然界のあらゆるものに繋がることであること。それを、私はホメオパシーを通じて、知りました。

 ほんとうのホメオパシーの姿、在り方、というものを考え続けて、そして伝えていけたらと思っています。

 拝

-----------------------------------------------------


 ここでたまちゃんが「ノイズ」と言っていることは、実は、ぼくも以前の日記で触れたことがあります……

こころと脳の対話
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=979978131&owner_id=64170

 ノイズとは、別のことばでいうならミンデルが言っている「フラート(ごく微かな気配)」にごくごく近い領域とも言えると思います……。たまちゃんとホメオパシーについて話していると、ノイズとかフラートといったことばが、ホメオパシーの本質的なカウンセリングでも中心的な課題をなしていることが伝わってきます……この領域は、臨床の知恵として症例発表的に陳述することはできるけれど、統計学的なデータ化、数値化、合理的現実にはなかなかなじみません。

 今、行われているホメオパシーを巡るバッシングというのは、いうなれば、データ化という計測可能なデータ優先主義的世界観に基づくものであり、そこには意識の不合理領域である、ノイズやフラート(あるいは物語性)のエリアに対するニグレクト(無視)が顕著に突出していると思われます。ちょうどこれは山口の助産師が、ビタミンK不足の疾患にはビタミンKを補完するという合理的世界のデータをニグレクト(無視)したのとまさに好対照をなしています。

 つい先日のことでした……。早朝の曹源寺境内を歩くウォーキング・メディテーションを行っているときのことです。

  曹源寺は正門、山門、本堂を貫く1本の参道があります。ちょうど片道100メートルくらいです。今行っているウォーキングメディテーションは、正門から本堂に向かってゆっくりと歩き、本堂の前に置かれている仏足石の前で一度立ち止まり、白隠禅師の坐禅和讃を1巻唱え終えたら、向きを変え、今度は山門を通って正門の方に向かって歩きます……そしてこれを何度かくり返すのです。

 今日は、本堂の前で坐禅和讃を唱え、向きを変え、正門の方に向かって戻りはじめた瞬間のことでした……はるか遠く正門の外に置いてある石でできた車止めが目に飛び込んできたのです……しかも、車止めではなくて、一匹の白い子犬のイメージとして飛び込んできたのでした。

 白い子犬は、実は車止めであるというのは、合意された日常的現実の世界の解釈ですが、フラートしてきたものは、石の車止めではなくって、白い子犬なのでした。

 お寺の正門入口の前で、小首をかしげながら待っている白い子犬……ご主人(マスター)の帰りを待ちわびている子犬。

 この白い子犬のエッセンス、白い子犬として顕現している未知のXを探ってゆくと、「純粋な信頼」ということばが浮かんできました。「純粋な信頼」そして「待つこと」……フラートしてきたこの子犬の本質はを煎じ詰めると、こんな感じになります。

 フラートしてくるものは、日常生活なかで、いつの間にか忘れ去ってしまい、無意識の辺境に追いやってしまっている何ものかです……このフラートの場合、探ってみると、それは「純粋な信頼と待つこと」…… に到りました。

 この本質を再び日常的現実や個人的な記憶、あるいは集合的な記憶へと関連づけてゆくと、ハチ公の物語、あるいは、明恵上人の有名な子犬の彫像などが浮かんできます……。白い子犬が、門の外で待っているというのもなんだか意味がありそうです。

 日常意識が周辺化させてしまっていた「純粋な信頼と待つこと」を意識的に日常生活のなかへと取り込んでゆくとどういう変化が起こるのだろうかという問いかけへと続きます……(これはミンデルのプロセスワークの一こまです)


フラート(ふと引きつけるもの)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1253712604&owner_id=64170
6 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2010年09月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930