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2009年09月09日08:39

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伊丹十三『女たちよ!』

 伊丹十三の『女たちよ!』を読み返していたら、ピーター・オトゥールについて書いた文章がありました。

 ピーター・オトゥールはアイルランド人である。アイルランドの西海岸のコラマールという寒村がオトゥールの生まれ故郷である。
 最近、彼はコラマールへ帰って一軒の酒場へ立ち寄ったのであるが、窓の外に、どこまでも茫茫と拡がっている緑色の丘を眺めながら、、朝から晩まで飲むうち、自動車が二台だけ通ったとお考えください。この時、酒場の親爺は、たまりかねた表情でこういったという。
「この頃は西の方へ出かけてくる連中が多うて−−車の音が喧しゅうてかなわんのです」
 この酒場は、法律によれば夜中を過ぎると酒を売ることができない。深夜営業の免許を持たないのである。だから、一時頃まで飲んでいるとお巡りがやってくる。お巡りがアイルランドの民謡を朗朗と唱いながらやってくる。
 アイルランド民謡がやむと、酒場の扉の外で咳払いの音がする。そうしてお巡りが大きな声で独り言をいうのが聞えるのだそうである。
「おや、儂の時計ではもう一時になっておるぞ。こんな時刻にまさか酒を飲んでおる者もなかろうが、しかしこれも儂の役目じゃ。一つ不意打ちに検査をしてやろう」
 そうして五分ばかりすると、慎み深く扉を叩く音がして、雲突くような大男のお巡りがはいってくるのだという。
 人間が、人間の尊厳を保ちながら生きることのできる唯一の場所、それがアイルランドなのだとピーターはいう。
 お巡りの職能は、人を罪に落すことではなく、犯罪を予防することにある。そういう理屈が現実に通用している唯一の場所なのだとピーターはいう。
 そうして、お巡りを夜道へ送り出しながら酒場の親爺は一献の酒を差し出していうのである。
「まあ道中のために一杯」
 ワン・フォー・ザ・ロードというのである。そうしてお巡りもこれを素直に受けて帰ってゆく。お客も帰ってゆく。親爺は店を閉めるのである。


 司馬遼太郎の『愛蘭土紀行』を持ち出すまでもなく、アイルランドというところは明治以降、日本人に愛されたところですが、なんとなくその理由がわかるようなやりとりです。酒場の親爺と警官の受け答えなんかは、そのまま時代劇の一幕になりそうな感じで、ごく自然に情景が思い浮かびます。
 それから、ニューヨーク市警はアイルランド系が多いらしいですが、「アイルランド系は融通が利くのはいいけれども、融通が利きすぐて云々」てな話があって、その「融通」の内実がなんとなくうかがえます。
 次は『アラビアのロレンス』の撮影中のエピソード。


「アラビアのロレンス」の中で駱駝に乗った大軍同士が戦う場面があるが、両軍は現実に激しく憎みあっている部族同士であったから、殆ど真実の喧嘩に近いものであったらしい。死者も何人か出たという。
 デヴィッド・リーンという人は、そういう非情の人間なのかも知れぬ。
 この時先頭を走っていたピーターが駱駝から振り落とされた。何千頭の駱駝が全速力で駈けている、その先頭で落ちてしまった。誰しもピーターは死んだと思ったのである。
 ところが、不思議なものじゃありませんか。駱駝はそういう場合には、落ちた人間の上に坐って他の駱駝の蹄からかばってくれるのだという。
 そういう具合いにしてピーターは九死に一生を得たのであるが、撮影隊の連中はみんな顔面蒼白になってとんできた。駱駝の下からピーターがごそごそ這い出した時の連中の喜びと安心はいかばかりのものであったろう。
 そんな中でただ一人、デヴィッド・リーン監督は顔色一つ変えずにいったのだ。
「どうかね、ピーター。次のカット撮れるかね」
 こいつは鬼だ!−−ピーターはその時思ったそうです。
 ファースト・シーンのオートバイで死ぬくだり、あれもスタンド・インなんか使わなかったという。そりゃ随分危いじゃないか、というと
「勿論危いさ。だからあの場面は撮影最後の日にやらされた」
と答えた。


 無茶な時代ですねえ。戦闘のシーンで仲の悪い部族を戦わせるとか、そりゃさすがにCGにはない迫力が出そうですけど、今それをやったら絶対に問題になって撮影中止に追いこまれそうな気がします。
 本の最後はいささか唐突にある小話によって締められています。


 新婚旅行に出た新郎新婦が、今日は天気がいいから、というので馬に乗って、連れだって散歩に出かけた。花婿の馬が先に立ってぽくぽくと林の中を歩いてゆくうち、花嫁を乗せた馬が低い枝の下を通ったものだから、小さな木の枝が花嫁の額をぴしりと打った。
 これを見るなり、花婿は馬からさっと降り立ち、花嫁の馬の側へつかつかと歩み寄る。そうして、馬の顔を、しばらくじっと見つめてから、
「一つ」
といった。
 散歩は再び続けられて、やがて二人はとある河のほとりにさしかかる。
 と、花嫁の馬が、今度は石につまずいて花嫁を危うく振り落とそうとする。
 これを見て、花婿はただちに馬を降り、花婿の馬につかつかと歩み寄り、しばらく馬の頭をまじまじと見つめてからいった。
「二つ」
 散歩は再び開始され、やがて二人は野原の中を歩いてゆく。
 と、花嫁の馬の前を兎が一匹、脱兎の如く横切ったからたまりません。花嫁の馬は驚いて棒立ちになり、花嫁は、どっと落馬する。この時すでに馬を降りた花婿は、花嫁の馬に向かって、
「それで三つだ!」
と叫ぶやいなや、矢庭に懐から拳銃を抜き出して、馬の眼と眼の間を見事に射ち抜いた!
 花嫁はあまりのことに呆然自失、しばらくは声も出ない風情でありましたが、やがて堰を切ったように喋りだした。
「まあ! あなたって! なんて非道い人なの! こんあ可哀そうな生き物を撃ち殺すなんて! この馬になんの罪があるの! なんの罪もありゃしないじゃないの! それを撃ち殺すなんて! あなたは気違いよ! そうよ! いってあげましょうか! あなたはね! あなたはサディストよ!」
 この時花婿は静かに花嫁のほうを振り返り、冷たい眼差しで花嫁の顔をじっと見つめていった。
「一つ」


 なんつーか、ひどいといえばひどい話です。私はちょっと孫武が呉王闔廬に召し出されて、宮廷の美女を訓練する話を思い出しました。見せしめに殺していうことをきかせる、というあたりはいかにも異民族との対立や治乱興亡の激しい歴史を背景に感じさせます。
 実は、この小話の前振りとして、「さて、最後にお話を一つ。これから結婚しようとする男は、少くともこのくらいの気迫を持ってもらいたいという、教訓的小噺」という文章があるのですが、それまでの展開からしてもとってつけたような按配で、あまり滑らかにつながっていません。
 話自体は、不穏な通奏低音をベースとしつつもうららかな農村の散歩の光景が描かれ、一転、短くも激しいやりとりの後、ふたたび静かなラストシーンとともに狂気を秘めた花婿のキャラクターが立ち上がってくる様子がじつに見事です。これだけの内容を、この分量で語りきる技術は相当なものです。むしろ、このエピソードの主体はかかる技巧の部分であって、話の主題はわりとどうでもいいというか、テクニックが突出しすぎているせいでテーマが霞んでいる印象を受けます。
 著者がラストにこの話を掲げたのも、それこそが理由ではないかと思われます。最後になにごとかくどくどと説明するなど野暮のきわみ。それゆえ、テクニックだけでむしろ空虚なエピソードを最後に置いたのではないでしょうか。
 なんというか、少しだけ引用してそこから広げるつもりが、読むごとに拾いたいところが増えて収拾がつかなくなりました。なんだかどうにもならないまま、今日はこれで終わり。

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