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2024年04月30日21:34

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『オッペンハイマー』

 上映時間は3時間を超える。「映画は90分に収めるべき」というポンポさんの基準からすれば、2本分の長さである。許されない暴挙といえよう。しかし、現実の映画界にあっては、ポンポさんよりもクリストファー・ノーランの方がはるかに影響力の大きな存在なのだから(というか、ポンポさんを知っている人はすごく少ないと思う)、ここで力んでみたところで仕方がない。

 戦後、ロバート・オッペンハイマー博士が審問に召喚されるところから、映画は始まる。赤狩りの嵐が吹き荒れる中、原爆の製造を成功させ、一時は時の人でもあった彼さえ、こういうところへ引っ張り出される羽目になったのだった。
 質問は、彼が研究者としての生い立ちにまでさかのぼってなされる。
「ドイツへ留学したんだね? アメリカにも研究所はあるだろう?」
「ええ、あります。でも、そこは私が作ったんですよ」
 第一次世界大戦が終わってしばらくのころ、まだまだヨーロッパは科学や産業の各分野において世界をリードし、アメリカよりも進んでいた。ドイツへ行って学究の道へ進んだ彼はしかし、ホームシックにかかって研究に支障をきたしてしまう。
 追い詰められた彼の内面や、量子力学の世界、核分裂のイメージカットがはさみこまれ、幻想的な雰囲気さえ漂う導入部となっている。

 映画はこうして、審問とそこからの回想で、各時代を行き来しながら進んでいく。各シーンは絶妙な間合いでレイアウトされ、観客が退屈しない程度には時代が飛ぶが、理解が追いつくようにはまとめられており、必要な情報はくり返し提示されている。3時間の長丁場がダレず、一気に見通せるようになっているのは、この配置の妙によるところが大きい。

 アメリカに戻って講義を持つようになるが、映画によれば最初は受講生が一人しかいなかったというから、当時の新大陸における量子力学の位置づけというのはその程度だったらしい。とはいえ、やはり、新しく注目される学問だけあって、学生はそれこそ倍々で増えていく。
 やがて、第二次世界大戦が始まり、ドイツが核兵器の開発を進めている疑惑が取り沙汰されるようになると、アメリカも対抗して同じ計画を進めようという機運が盛り上がる。ここで量子力学や核物理学とその研究者が時代の寵児として、歴史に登場してくることになってくるのだった。
 おそらく、この時点でこの分野を先行していたのはドイツだったのだろうけど、それを担っていた研究者にはユダヤ系が多かった。しかし、ナチスがユダヤ人を迫害したため、彼らはほとんどアメリカへ移ってしまう。マンハッタン計画を受けて、自身もユダヤ系だったオッペンハイマーが行政面でも手腕を発揮し、彼らをまとめて原子爆弾の完成にこぎつけるところが、作中でもクライマックスになっている。

 途中、核分裂が始まると連鎖反応で大気全体が燃え上がる可能性が指摘され、再計算で否定されたけれど、この可能性はジョークとして研究者の間でその後も延命していくことになる。
 実験前夜、トトカルチョにこの項目を見つけて、「どういうことだ!?」と詰めより、「(そうなる可能性は)ほとんど0だよ」とめんどくさそうに答えられて、いまさら呆然とする軍人の反応がおもしろい。

 実験は成功する。ドイツはすでに降伏していたが、日本に2発の原子爆弾が投下される。注目されていたのはもっぱらその爆発力であって、放射線による被害は想定されていなかったようである。
 もっとも、戦後に核爆弾を投下した地点へ兵士を移動させ制圧させる訓練を実施したほどだから、この件は軍の内部でもそれほど留意された様子はない。ハリウッド映画でも核爆弾が起爆してしまう展開はそれなりにあるけれど(この時点でドン引き)、焦点はひたすら爆発にあって、放射線被爆について考慮されている気配はない。

 それまでは課題を解決し、計画を実現していく高揚感が作品を圧しているけれど、爆心地の実情を知ったオッペンハイマーは、必ずしももろ手をあげて喜ぶという様子でもなくなっていく。
 核分裂による原子爆弾の開発が進むうち、より強大な破壊力を有する核融合による水素爆弾の可能性が浮上してくる。戦後、彼は水爆の開発を進めなかったし、原爆開発を後悔するような発言をして批判されている。

 彼はアメリカが水爆を開発すると、ソ連も開発せざるをえなくなるという判断だったらしいけれど、個人的には別にアメリカの開発の有無に関わらずソ連は可能なら水爆を作ったと思う。

 そもそも彼は戦前から共産主義者と交際があったし、妻は後に脱退したけど活動歴のある女性だった。大学で組合じみたものを組織して、大学当局ににらまれたり、同僚と険悪になったりしている。挙句、著名な共産主義者の近親者と愛人関係にあり、原爆開発中に実際に会いに行っていたりしている。
 それらが後に問題にされ、冒頭の審問となっている。戦争中はドイツへの対抗上、アメリカはソ連とは友好的な関係を維持したが、終わって世界の線引きについて新たな競合が始まってしまえば、国内の風向きも一変する。

 審問というのは、オッペンハイマーに国家の重要情報へのアクセスを許可するかというもので、作中ではそれ以上に具体的な話が出ないのでちょっとわかりづらいけれど、つまるところ、彼が政府の重要なポジションにつけるかどうかだと思う。

 それはそれで当人には重要なことかもしれないけれど、量子論という宇宙の成り立ちともつながる世界の探求に青春を捧げ、さらに核兵器の開発という、賛否はあるにせよ人類の叡智の結晶を完成させた事績のスケールと比較すれば、なんと俗っぽく損得勘定の算盤の珠の弾く音しか聞こえてこないことか思うのである。

 しかも、この審問の裏で糸を引いているのは、二人三脚で原爆開発をリードしてきた相方の軍人らしいということにもなってくるのだった。赤狩りといったところで、つまるところ政敵に共産主義者の濡れ衣を着せて追いこむための、政治闘争にすぎない。それは、たいていの政治的なムーヴメントが回収される定式のようなものといえる。
 しかも、ここでオッペンハイマーを追い落とした人物も、上院の反対にあって熱望していた閣僚の座を逃し、失意のまま政界を去ることになる。

 ファンタジックにも見える量子の世界を探求する序盤、学界の俊英を集め膨大な国費を投入し原子爆弾開発を達成する中盤と比較して、この終盤の尻すぼみっぷりにこちらの気分も萎えかけるのだけど、あらためて考えると意図的な構成だと思われる。ある意味、栄枯盛衰は人の世の常、驕れるものも久しからず、猛きものもついには滅びぬ、なのである。
 過去と現在が交錯する語り口が特徴の本作であり、時代ごとに画面の色調が変えてあるけれども、一般的な過去が白黒で現在がカラーというわけでもない。むしろ、過去に鮮やかな配色がなされており、現在の方がくすんでいて、白黒になっていたりする。主人公の内面の昂揚の方に連動しているらしい。

 映画のはじめの方、新たな赴任先でオッペンハイマーが旧知のアインシュタインに湖畔で話しかけるが、素っ気ない反応を返されるシーンがある。この時、二人の間にどういうやりとりがあったのかが、謎として終盤まで引っ張られるのだけれど、ここでは前提としてすでにアインシュタインが量子論の世界では過去の人とはいわないまでも、傍系の存在だったことを押さえておかねばならない。二十世紀初頭における量子力学の発展はそれほど急激だったのである。

 あの時、アインシュタインは自分の送別会について述べながら、死者の弔いがなされるのは、死を悼むからではなく生き残った人間のためなのだと言ったのだった。
 その後、オッペンハイマーにも賑やかな送別の宴が催され、彼はそうして一線から退いていく。彼をそうやって見送っていった者たちも、いずれは同じ末路をたどることを暗示させつつ。

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