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2009年09月02日07:27

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一度は口に出して言いたい日本語・その7

「けど、料理を味覚だけで判断できる人なんか滅多にいてへんし、それに、満足感は味覚だけでおさめられるというわけでもないしね。大方の人は料理は半分はムードで食べてるんやと思うわ」
 村田吉弘『京料理の福袋 料亭「菊乃井」主人が語る料理人の胸の内』P101

 なんだかここだけ抜き出すと誤解されてしまいそうです。
 当然、この文章はだから調理なんて手を抜いてもいいということを述べているわけではありません。
 そうでなくて、おいしさや満足感というものは器・盛り付け・接客・店の内装や雰囲気など、トータルなものとして演出されるわけだから、そういうことをおろそかにしてはならないという文脈のもとで語られています。
 京都の老舗の料亭の主人が、味覚至上主義に対するアンチテーゼを語っている言葉として興味深いので取り上げてみました。

 甘味・酸味・辛味・苦味・旨味などは、試薬を用いて訓練すれば一般人でもかなり鋭く感じとれるようになるそうです。ここまでは測定可能なジャンルなので問題ないとして、それを基礎にした美味不味の区別についていえば、個人的にはほぼ記憶や経験の領域に属することではないかと思っています。
 ある食べ物の美味不味を判定が分かれた場合、その差を判定者の味覚の感度の上下の問題として語られることが多いようですけれど、記憶や経験を共有することが困難であるのと同程度に味覚も共有することが難しいのであれば、そこに差異が生じるのはある意味で当然のことといえるはずです。
 卑近な例を挙げれば、グルメランキングサイトの味についての評価のところは、あまりあてになりません。
「この店の味つけは理解できない」
 なんて書いてあったりしますけど、これは要するに「おまえは俺ではないから馬鹿なのだ」と言っているようなもので、それはそうだろうなあとしかいいようがないわけですけど、ことネットにおいては食に限らずそうした物言いは多いですねえ。

 というわけで、ネットや雑誌の「自分は味のわかる人間だが」式の記事はだいたい怪しいものです。まあ、ウェブ上のテキストなんてものはなにをどう書こうが誰にも迷惑はかからないわけでして(基本的には)、勝手に書けばいいようなものですけど、食べることについての文章においては、中島らもが東海林さだおのエッセイを評した「食べ物の話は罪がないからいい」という言葉に尽きると思います。にも関わらず、たまに妙に肩肘張った文章に出会ったしまうのは、グルメブーム、あえて特定してしまえば『美味しんぼ』の弊害といえましょうか。

 もっとも、この本自体は別に巷のグルメ批判とか、そんな野暮な話題を扱ってはいません。端正な筆致で京料理についての丁寧に語られています。
 なかでも特におもしろいと思ったのは、著者が関西と関東の水でそれぞれダシをとってみた話でしょうか。
 一般にヨーロッパなどはミネラル分などを多量に含む硬水、日本は軟水とされていますが、同じ日本でも関東は関西と比較してやや硬水の傾向があるそうです。
 料理を作る上でこれがどう影響してくるかというと、関東の水では昆布でダシをとっても旨味が出にくくなります。自然、カツオで強めにダシをとるようになりますが、そうなると生臭みがでるため、今度はこれを抑えるために醤油を多用することになるそうです。たしかに、関東では醤油による味つけが濃いといわれています。うどんの出汁は関西が澄んでいて、関東は底が見えません。

 内容についてではないのですが、ちょっと気になるのは終盤になってからなぜか「すべからく」を多用するのですけど、これが誤用ばかりなこと。著者は戦後生まれの人らしいですけれど、この後に読んだ昭和8年生まれの伊丹十三の本では正しく使われていたので、やはり、戦争の前後で正しく使える人と使えない人が分かれるみたいです。
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